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第62話 忘却の誘い


 灰色の雪——呪いの羽根が舞い散る中、王宮の中庭は阿鼻叫喚の図頭と化していた。狂乱した精霊たちが騎士たちを薙ぎ払い、運河から這い出した泥の兵士が回廊を埋め尽くしていく。


「エルセ、俺のそばを離れないでください!」


 ギルベルトが漆黒の魔力を爆発させ、エルセリアを囲むように障壁を張り巡らせる。彼の短剣は、迫りくる変異精霊を紙細工のように切り裂いていくが、敵の数は無限と言ってよかった。


「精霊王様……! お願い、しっかりして!」


 エルセリアは精霊王の足元で、必死に浄化の光を送り続けていた。だが、降り注いでくる歌は、彼女の精神を削るように、じわじわと意識を混濁させていく。


(……うるさい。頭の中で、誰かがずっと叫んでいるみたい……)


 視界が白く霞み始めた、その時だった。


「——エルセリア」


 激しい戦音の中に、場違いなほど穏やかで、懐かしい声が混じった。


 エルセリアが顔を上げると、灰色の霧の向こう側に、あの翡翠色の髪の少年が立っていた。精霊王の繭の前で、彼女を導いてくれたあの精霊だ。


「……精霊、さん……?」

「こっちだよ、エルセリア。……君を助けに来たんだ。そこにいたら、君の魂まで灰色に染まってしまう」


 少年は優しく微笑み、彼女に手を差し伸べている。その瞳は、以前と同じ翡翠色。けれど、その奥に薄っすらと赤が混じっていることに、ぼんやりとした彼女の意識は気づかなかった。


「だめだ、行っちゃ……いけない……」


 自分の中の何かが警告を発している。けれど、少年の姿を見つめていると、頭の芯が痺れるような、抗いがたい浮遊感に包まれる。足元を流れる不気味な歌声が、彼を見ている間だけは心地よい子守唄のように聞こえ始めた。


「……そっちに……行けば、みんな助かるの?」

「うん。君が僕と一緒に来てくれれば、この国の痛みは全部消える。……おいで、エルセリア」


 少年の声は、もはや絶対的な甘い命令となって彼女を支配した。エルセリアは、まるで糸を引かれる人形のように、ふらふらと一歩を踏み出す。


「エルセ! どこへ行くのです、止まってください!!」


 背後でギルベルトの声が響く。彼は障壁を維持しながら、襲いかかる数体の泥兵士を千切り捨てていた。一瞬、ほんの一瞬、彼が敵に囲まれ、彼女から視線を外したその隙。


 エルセリアはギルベルトの手が届かない、灰色の霧の奥へと吸い込まれていった。


「——あ」


 少年の指先が、エルセリアの手首に触れた。その瞬間。

 翡翠色の少年は、霧のように形を崩し、ドロドロとした黒い泥へと変貌した。


「え……?」

「あは……あははっ! かかった。純粋すぎる魂っていうのは、本当に御しやすいね」


 霧の向こうから、聞き覚えのない、酷く不快な笑い声が聞こえてきた。それと同時に、エルセリアの手首、足首、そして首筋に、灰色の魔力で編まれた茨の鎖が猛烈な勢いで巻き付いてくる。


「っ……ぁ……! 体が……動か、ない……っ」


 凄まじい緊縛感。魔力の供給が断たれ、彼女の真珠色の光が急速に失われていく。呪いの鎖は彼女を空中に吊り上げ、逃げ場を完全に封じた。


「エルセリア!!」


 霧を切り裂き、ギルベルトが飛び込んでくる。


 だが、彼の剣が鎖に届くよりも早く。エルセリアの背後の空間が、ガラスが割れるようにひび割れた。


「ようこそ、聖女様。僕の演奏会の特等席へ」


 ひび割れた空間の奥から、白と黒の髪を揺らし、紅い瞳を愉悦に輝かせた青年——ゼノンが姿を現した。彼は宙に浮いたまま、拘束されたエルセリアの顎を愛おしそうに指先で撫でる。


「…………っ、あなた、は……」

「僕はゼノン。君のその綺麗な力を、もっと正しい形に変えてあげる調律師さ」


 ゼノンは、激昂して突っ込んでくるギルベルトを一瞥し、冷たく指を鳴らした。エルセリアを縛る鎖が、そのまま彼女を闇の裂け目へと引きずり込んでいく。


「ギル!! ギル、助けて——っ!!」


 エルセリアの叫びが、閉じる裂け目の向こう側に消えていく。


「エルセリア!」


 ギルベルトが手を伸ばすも、その指先は彼女に届くことはなく、虚空を切っただけだった。

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