第61話 侵蝕する歌
抱擁の余熱を、冷徹な死の気配が塗り潰していく。ギルベルトに抱きすくめられていたエルセリアは、ガタガタと震える窓の向こう側に、絶望的な予感を感じ取っていた。
「……ギル、あれを見て!」
エルセリアが指差した先、王宮を囲む美しい運河が恐ろしい速度で濁っていた。それは単なる泥の汚れではない。生き物の精髄を吸い取った後の残滓のような、生命力の一切を拒絶する灰色の澱みだ。
「……精霊たちが、苦しんでいる……?」
部屋の中にいた小さな水の精霊たちが、苦悶の声を上げながら黒ずんでいく。彼らは互いに噛みつき、狂ったように壁を叩き始めた。精霊とは、本来世界の理を司る美しい存在。それがこれほどまでに醜く変貌するのは、あまりに不自然で、冒涜的な光景だった。
「下がっていてください、エルセ。……これは普通の呪いじゃありません。精霊そのものの根源を書き換えるような、質の悪い魔術です」
ギルベルトがエルセリアの前に立ち、短剣を逆手に構える。その背中には、先ほどまでの甘い熱情は微塵も残っておらず、主を守る鉄壁の盾としての静かな殺気だけが宿っていた。
グォォォォォォォッ!!
再び、精霊王の咆哮が響く。だが、その声には苦渋の色が混じっていた。王宮の中庭に鎮座していた白銀の神獣が、空に向かって牙を剥く。彼の巨大な翼には、どこからともなく飛来した灰色の羽がまとわりつき、その純白の毛並みを侵食しようとしていた。
『……おのれ……何者が、この清浄なる空を穢すか……ッ!!』
「精霊王様!」
エルセリアはギルベルトの制止を振り切り、窓を開け放つ。吹き込んできたのは、砂漠の熱風ではなく、凍り付くような死の冷気。そして、どこからか聞こえてくる、不気味なほどに整った歌の旋律。
それは言葉を伴わない、旋律だけの呪い。その歌声が響くたび、王宮内に潜んでいた精霊たちが次々と発狂し、警護の騎士たちに襲いかかり始めた。
「グアァッ! やめろ、お前たちは守護精霊だろう!?」 「火の精霊が暴走している! 消火が間に合わん!!」
回廊の向こう側から、騎士たちの悲鳴と爆発音が聞こえてくる。
「……エルセ、ここを離れます。精霊王のそばへ行くのが一番安全だと思われます。彼はまだ、自意識を保っている」
「ええ……! 精霊王様を、一人にはさせられないもの」
二人は部屋を飛び出し、混乱の極みにある回廊を駆け抜けた。道中、狂った風の精霊が鋭い鎌を形成して襲いかかってくるが、ギルベルトが瞬きする間に切り伏せていく。
「どけ。エルセの道を開けろ」
ギルベルトの剣筋は、精霊の核を的確に逸らしつつ、魔力の供給路だけを断つ精密なものだ。彼は知っていた。ここで精霊を完全に殺せば、この国の守護が失われる。それをエルセリアが望まないことも。
ようやく辿り着いた中庭。そこにはエドワードとカインが、すでに剣を抜いて精霊王を囲むように立ち塞がっていた。
「エルセリア! 無事か!」
「エドワード様、この状況は一体……?」
エドワードは苦渋の表情で、空を指差した。
「分からない。だが、王宮を囲む結界の内側で、精霊たちが一斉に反転したんだ。まるで、誰かが指揮棒を振って、主旋律を狂わせたかのような……」
精霊王は、エルセリアが近づくのを感じると、その巨大な頭を彼女の方へ向けた。彼の周囲には、エルセリアの魔力が届く範囲だけ、かろうじて清浄な空間が保たれている。
『……乙女よ。離れるな……。この歌……この灰色の歌声が届く範囲では、我が同族たちは皆、意思を奪われ、呪いの人形と化す……』
精霊王の脚が震えている。王宮の地下から湧き上がる灰色の澱みが、彼の四肢に絡みつき、その強大な力を内側から腐食させていた。
「精霊王様を、守らなきゃ……」
エルセリアは両手を重ね、祈りを捧げた。彼女の指先から真珠色の光が溢れ出し、精霊王を包み込む。
その瞬間、精霊王の瞳から濁りが消え、彼は安堵のため息を漏らした。エルセリアがそばにいることで、彼はかろうじて呪いを拒絶できている。
「……姿は見せないのかよ。臆病な魔術師だ」
カインが毒づきながら、空を見上げる。雲の向こう側から、灰色の羽が雪のように降り積もる。
姿は見えない。しかし、確実に見られている。誰かが、この王宮全体を箱庭のように眺め、この混乱を楽しんでいる。
「エルセ。……敵はまだ、遊びのつもりのようです」
ギルベルトが、不吉な予感に瞳を尖らせる。王宮の運河から、灰色の水で形作られた兵士たちが、無数に這い上がり始めていた。
「……来る。エルセ、俺の背中に隠れていてください。……ここから先は、一歩も通させない」
呪いの歌が、さらに高らかに響き渡る。それは、再興を始めたクレイウス王国を、再び絶望の底へ引きずり込むための序曲だった。




