表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

61/63

第60話 火を灯した聖女


 「いいですか、お嬢様。あのような狂犬、正面からぶつかっては思う壺です。男という生き物は、想定外の柔らかな攻撃にこそ、もっとも脆いものなのですよ」


 ギルベルトに散々弄ばれたエルセリアは、逃げ込んだ先でマルタから「男を黙らせる秘策」を伝授されていた。


 マルタが差し出したのは、クレイウスの市場で見つけたという、ほんのりと甘く官能的な香りのする練り香水。そして、耳を疑うような助言だった。


「……ま、マルタ、本当にそんなことを……?」

「ええ。引いてダメなら、無防備に踏み込むのです。そうすれば、あのような男は、己の欲望と理性の板挟みで勝手に自壊します」


 エルセリアは、真っ赤な顔で頷いた。いつまでもからかわれ、翻弄されるだけの女ではないところを見せてやりたかったのだ。





 夕刻。王宮の部屋に戻ったエルセリアを待っていたのは、いつものように完璧な所作で控えるギルベルトだった。


「お帰りなさい、エルセ。マルタのところで、少しは頭が冷えましたか?」


 ギルベルトは、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべている。その余裕に、エルセリアの心に小さな火がついた。


「……ええ。おかげさまで、とっても冷静だわ。ギル」


 エルセリアは、努めて平然を装いながら、彼に歩み寄った。一歩、二歩。普段なら足を止めるはずの距離を、彼女は軽やかに踏み越える。


「……エルセ?」


 ギルベルトの眉が、怪訝そうに動く。エルセリアは止まらない。彼の胸元に触れるほどの至近距離まで詰め寄ると、その小さな両手で、ギルベルトの逞しい首筋をそっと包み込んだ。マルタに教わった通り、上目遣いで、少しだけ震える声を出して。


「……ねえ、ギル。さっきは、あんなに意地悪を言ったのに。……今は、どうしてそんなに強張っているの?」

「…………っ!!」


 ギルベルトの全身が、鉄の棒のように硬直した。エルセリアの指先から伝わる、柔らかな体温と、甘く芳しい練り香水の香り。そして、自分の視線を逃げずに真っ直ぐ射抜く、潤んだ紫の瞳。


「……エルセ。……何の真似、ですか。これは」


 彼の声が、低く、掠れたものに変わる。


 エルセリアは勝利を確信した。彼が動揺している。あの余裕な笑みが消え、必死に理性を繋ぎ止めているのが手に取るように分かった。


「お返しよ。……私をからかってばかりの悪い子には、こうして……私の方から、お仕置きしないと」


 エルセリアは、さらに背伸びをして、彼の耳元に唇を寄せた。


「……ねえ、ギル。……今は、お酒の力なんて、借りていませんわよ?」


 バチン、と。ギルベルトの中で、何かが完全に弾け飛んだ。


「………………ああ、もう。知りませんよ。……全部、あなたのせいだ」


 次の瞬間、視界が回転した。エルセリアは、抗う間もなく背後の寝台へと押し倒されていた。覆い被さるギルベルトの体は、昼間よりもずっと熱く、重い。彼の瞳には、もはや騎士としての光など微塵もなく、ただただ暗い雄の渇望が燃え盛っていた。


「待っ、ギル……!? ちょっと、仕返しをしたかっただけで……っ」

「遅すぎます。……俺に火をつけて、今さら逃げられると思っているのですか。……あなたが俺を求めた。それがすべての答えだ」


 ギルベルトの熱い唇が、エルセリアの首筋を食むように這う。彼の大きな手が、エルセリアの腰を、優しくも力強く抱き寄せた。昼間の囁きとは比較にならないほどの重圧。


 エルセリアは、自分の心臓の音が全身に響き渡るのを感じながら、彼の情熱に飲み込まれていく。


「エルセ。……エルセリア。もう、絶対に、離さない」


 ギルベルトが、彼女の唇を奪おうと顔を近づけ、ついにそのすべてを抱き締め、溶け合おうとした、その瞬間——。


 グォォォォォォォッ!!!


 王宮全体を震わせるような、精霊王の凄まじい咆哮が響き渡った。


「…………ッ!?」


 同時に、閉め切っていた窓が激しくガタガタと震え、部屋の隅に控えていた小さな水の精霊たちが、悲鳴を上げながら四散した。


「ギ、ギル……! 精霊たちが……!」


 エルセリアは、ギルベルトの胸を押し返し、弾かれたように顔を上げた。ギルベルトもまた、燃え盛っていた情欲を瞬時に普段の冷静な瞳へと切り替え、鋭い眼差しで窓の外を射抜く。


「いいところを邪魔しやがって……。エルセ、離れないで。……これは、ただ事ではありません」


 窓の外を見れば、そこには信じがたい光景が広がっていた。蘇ったばかりの美しい運河が不気味な灰色に染まり、王宮を囲む庭園の花々が、一瞬にして黒く腐り落ちていく。


 空には、白と黒の混ざり合った呪われた羽が、雪のように舞い落ちていた。


「……この力……。まさか、あの時の……?」


 エルセリアの脳裏に、毒の泉と化していた聖なる泉が思い浮かぶ。あの泉から感じた呪いの力が、今もまた感じ取れるのだ。


「……エルセ。続きはすべて片付けてから、たっぷりとさせていただきます」


 ギルベルトはエルセリアを守るように体を翻し、剣を抜き放った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ