第60話 火を灯した聖女
「いいですか、お嬢様。あのような狂犬、正面からぶつかっては思う壺です。男という生き物は、想定外の柔らかな攻撃にこそ、もっとも脆いものなのですよ」
ギルベルトに散々弄ばれたエルセリアは、逃げ込んだ先でマルタから「男を黙らせる秘策」を伝授されていた。
マルタが差し出したのは、クレイウスの市場で見つけたという、ほんのりと甘く官能的な香りのする練り香水。そして、耳を疑うような助言だった。
「……ま、マルタ、本当にそんなことを……?」
「ええ。引いてダメなら、無防備に踏み込むのです。そうすれば、あのような男は、己の欲望と理性の板挟みで勝手に自壊します」
エルセリアは、真っ赤な顔で頷いた。いつまでもからかわれ、翻弄されるだけの女ではないところを見せてやりたかったのだ。
夕刻。王宮の部屋に戻ったエルセリアを待っていたのは、いつものように完璧な所作で控えるギルベルトだった。
「お帰りなさい、エルセ。マルタのところで、少しは頭が冷えましたか?」
ギルベルトは、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべている。その余裕に、エルセリアの心に小さな火がついた。
「……ええ。おかげさまで、とっても冷静だわ。ギル」
エルセリアは、努めて平然を装いながら、彼に歩み寄った。一歩、二歩。普段なら足を止めるはずの距離を、彼女は軽やかに踏み越える。
「……エルセ?」
ギルベルトの眉が、怪訝そうに動く。エルセリアは止まらない。彼の胸元に触れるほどの至近距離まで詰め寄ると、その小さな両手で、ギルベルトの逞しい首筋をそっと包み込んだ。マルタに教わった通り、上目遣いで、少しだけ震える声を出して。
「……ねえ、ギル。さっきは、あんなに意地悪を言ったのに。……今は、どうしてそんなに強張っているの?」
「…………っ!!」
ギルベルトの全身が、鉄の棒のように硬直した。エルセリアの指先から伝わる、柔らかな体温と、甘く芳しい練り香水の香り。そして、自分の視線を逃げずに真っ直ぐ射抜く、潤んだ紫の瞳。
「……エルセ。……何の真似、ですか。これは」
彼の声が、低く、掠れたものに変わる。
エルセリアは勝利を確信した。彼が動揺している。あの余裕な笑みが消え、必死に理性を繋ぎ止めているのが手に取るように分かった。
「お返しよ。……私をからかってばかりの悪い子には、こうして……私の方から、お仕置きしないと」
エルセリアは、さらに背伸びをして、彼の耳元に唇を寄せた。
「……ねえ、ギル。……今は、お酒の力なんて、借りていませんわよ?」
バチン、と。ギルベルトの中で、何かが完全に弾け飛んだ。
「………………ああ、もう。知りませんよ。……全部、あなたのせいだ」
次の瞬間、視界が回転した。エルセリアは、抗う間もなく背後の寝台へと押し倒されていた。覆い被さるギルベルトの体は、昼間よりもずっと熱く、重い。彼の瞳には、もはや騎士としての光など微塵もなく、ただただ暗い雄の渇望が燃え盛っていた。
「待っ、ギル……!? ちょっと、仕返しをしたかっただけで……っ」
「遅すぎます。……俺に火をつけて、今さら逃げられると思っているのですか。……あなたが俺を求めた。それがすべての答えだ」
ギルベルトの熱い唇が、エルセリアの首筋を食むように這う。彼の大きな手が、エルセリアの腰を、優しくも力強く抱き寄せた。昼間の囁きとは比較にならないほどの重圧。
エルセリアは、自分の心臓の音が全身に響き渡るのを感じながら、彼の情熱に飲み込まれていく。
「エルセ。……エルセリア。もう、絶対に、離さない」
ギルベルトが、彼女の唇を奪おうと顔を近づけ、ついにそのすべてを抱き締め、溶け合おうとした、その瞬間——。
グォォォォォォォッ!!!
王宮全体を震わせるような、精霊王の凄まじい咆哮が響き渡った。
「…………ッ!?」
同時に、閉め切っていた窓が激しくガタガタと震え、部屋の隅に控えていた小さな水の精霊たちが、悲鳴を上げながら四散した。
「ギ、ギル……! 精霊たちが……!」
エルセリアは、ギルベルトの胸を押し返し、弾かれたように顔を上げた。ギルベルトもまた、燃え盛っていた情欲を瞬時に普段の冷静な瞳へと切り替え、鋭い眼差しで窓の外を射抜く。
「いいところを邪魔しやがって……。エルセ、離れないで。……これは、ただ事ではありません」
窓の外を見れば、そこには信じがたい光景が広がっていた。蘇ったばかりの美しい運河が不気味な灰色に染まり、王宮を囲む庭園の花々が、一瞬にして黒く腐り落ちていく。
空には、白と黒の混ざり合った呪われた羽が、雪のように舞い落ちていた。
「……この力……。まさか、あの時の……?」
エルセリアの脳裏に、毒の泉と化していた聖なる泉が思い浮かぶ。あの泉から感じた呪いの力が、今もまた感じ取れるのだ。
「……エルセ。続きはすべて片付けてから、たっぷりとさせていただきます」
ギルベルトはエルセリアを守るように体を翻し、剣を抜き放った。




