第56話 理性の残火
月光が王宮を青白く照らす夜。喧騒の宴を抜け出し、ギルベルトは腕の中にある宝を抱えて、彼女の寝室へと辿り着いた。
「……エルセ。到着しましたよ。さあ、今夜はもうお休みになってください」
寝台の柔らかい絹のシーツの上に、壊れ物を扱うようにエルセリアを横たえる。だが、彼女の頬は依然として『砂漠の焔』の毒気に当てられたまま、熱を帯びた薔薇色に染まっていた。アメジスト色の瞳は潤み、焦点が合わないまま空を泳いでいる。
「……あ、れぇ……? ギル……。ここ、どこ……?」
「エルセの寝室ですよ。……まったく、これほど度数の強い酒を置いておいたあの暴君を今度殴りましょう。……少し、冷たい水を持ってきます。頭を冷やしましょう」
ギルベルトが介抱のために腰を浮かせようとした、その時だった。
「……やだっ」
熱を帯びた、細く、柔らかな指先が、ギルベルトの手首を強く掴んだ。ギルベルトは、まるで落雷を受けたかのように動きを止める。振り返れば、寝台に横たわるエルセリアが、今にも泣き出しそうな、うるうるな瞳で、彼を真っ直ぐに見上げていた。
「……ギル。いかないで……。どこにも……いかないで」
「…………っ!!」
それは、ギルベルトの理性を根こそぎ奪い去るのに十分すぎる一撃だった。甘く、震える声。普段の彼女なら絶対に口にしない、剥き出しの依存。
酒の力が見せた幻だと分かっていても、彼の内側で眠っていた雄の本能が、猛獣のように牙を剥いた。
「……エルセ。……そんなことを仰ってはいけません。俺は、あなたの騎士です。……そんな目で俺を見たら、俺は……」
「……ギルが、いいの……。ギルじゃなきゃ、だめ……なの」
エルセリアは掴んだ手を離さず、それどころか彼を自分の方へ引き寄せた。
抗えなかった。ギルベルトは吸い寄せられるように、彼女の顔のすぐそばまで上体を倒した。
至近距離で交わる、甘い酒の香りと、彼女自身の清らかな体温。ドレスの隙間から覗く白い鎖骨が、呼吸に合わせて上下している。
ギルベルトの脳内で、何かが音を立てて崩壊した。
(あぁ、もう、限界だ)
彼が守ってきた忠誠という名の壁が、彼女の無防備な愛らしさの前に、砂の城のように崩れ去る。 ギルベルトは、彼女を閉じ込めるように寝台に両手をつくと、喉の奥で獣のような低い呻きを漏らした。
「……エルセ。……後悔しないでくださいよ」
重なる、吐息。ギルベルトは、吸い込まれるように彼女の唇に、自らのものを重ねた。
それは、これまでの彼が捧げてきた接吻ではない。相手を貪り、奪い、自分の所有物であることを刻みつけるための、狂おしいほどに深い、男の口づけ。エルセリアは驚いたように小さく声を漏らしたが、すぐにその熱に浮かされるように、彼の首に腕を回した。
「ん……んん……っ」
口づけは一度では終わらず、何度も、深さを変えて繰り返される。ギルベルトの指先が、彼女の薄絹のドレスの肩紐に触れた。このまま、彼女のすべてを暴き出し、自分の存在で塗り潰してしまいたい。そんな真っ黒な欲望が、彼の理性を焼き切ろうとしていた。
だが。
「……ギル……大好き……」
熱い口づけの合間に、エルセリアが夢見るように呟いた、その言葉。その純粋すぎる響きが、ギルベルトの暴走しそうだった心臓に、冷水を浴びせかけた。
(…………いけない)
彼は、自らの指先がドレスを脱がしかけていたことに気づき、激しい嫌悪と共に動きを止めた。 今、ここで彼女を奪えば、それは彼女が望んだことではない。酒に酔い、自分を信頼しきっている彼女の心を裏切ることになる。
彼女を守るはずの騎士が、彼女を傷つける獣に成り下がってどうする。
「…………はぁ、はぁ……っ!!」
ギルベルトは、無理やり唇を引き剥がした。彼の眼光は鋭く、全身は欲望に耐えるあまりに細かく震えている。寝台の上で、エルセリアは少し不満そうに、けれど満足げにふにゃりと微笑んだ。
「……ギル……? いか……ない?」
「……ええ。……いきません。……どこにも、いきませんとも」
ギルベルトは、最後の手加減を振り絞って、彼女の肩を抱き寄せた。彼は靴を脱ぎ、彼女の隣に横たわると、その小さな体を押し潰さない程度の強さで、ぎゅっと抱きしめた。
「……今夜は、こうして隣で眠るだけに留めておきます。これ以上は、俺の命がいくつあっても足りませんから……」
腕の中のエルセリアは、彼の心臓の激しい鼓動を子守唄にするかのように、すぐに「すー……すー……」と幸せそうな寝息を立て始めた。
一方、ギルベルトは。隣に世界で一番愛する女の柔らかな感触を感じながら、天井を見上げ、一睡もできない夜を過ごすことになった。彼の理性と雄の本能の戦いは、かろうじて理性の勝ちに終わったが、その代償として、彼の精神は朝までに数十年分老け込むほどの試練を味わうことになる。




