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第55話 月下の宴


 クレイウス王宮の一角、美しい庭園を望む小広間で、その宴は開かれた。公式な晩餐会ではない。エルセリアを救い、国を救った、志を共にする者たちだけが集う宴会である。


 会場には、砂漠の国特有の甘い香油の匂いと、蘇った泉から引かれた清涼な水音が響いている。  エルセリアは、クレイウス流の薄絹を用いた真珠色のドレスに着替えていた。


「さあ、エルセリア。この国の最高級のブドウで造られた、特別な果実酒だよ。この勝利と、君という奇跡に乾杯しよう」


 エドワードが、琥珀色に輝くグラスを差し出し、彼女の隣に自然な動作で滑り込んだ。その距離は、明らかに友人の一線を越えようとしている。


「……ありがとうございます、エドワード様」


 エルセリアが微笑んでグラスを受け取ろうとした瞬間、その間に鋭い金属音が割り込んだ。ギルベルトが差し出した銀のトレイである。


「暴君王子、エルセに馴れ馴れしく触れないでいただきたい。その視線、あと五ミリ下がったら視神経を断絶しますよ」

「ははっ、相変わらずだなギルベルト。だが、今夜は宴だ。無粋なことは言いっこなしにしようじゃないか」


 エドワードはギルベルトの殺気を柳に風と受け流し、エルセリアの耳元で囁く。


「エルセリア、この旅が終わっても、君をこの国に留める方法を私は本気で考えているんだ。たとえば……王妃の座を君にあげる、なんていうのはどうかな?」

「お前えぇぇぇ!!」


 ギルベルトが激昂し、懐から暗殺用の黒い鎖を取り出そうとしたその時。


「閣下。エルセを困らせてはいけませんよ」


 カインがひょいと現れ、エドワードとエルセリアの間に割り込んだ。彼はエルセリアの肩に腕を回そうとしながら(ギルベルトの鎖が飛んできたので寸前で避けた)、不敵に笑う。


「閣下は堅苦しすぎるんですよ。エルセ、王妃なんて退屈な肩書きより、僕と一緒にこの広い世界を自由に歩き回らないか? 僕なら、君を一生退屈させない自信があるよ」

「カインさんまで……ふふっ、お二人とも冗談がお上手ですわ」


 エルセリアは楽しそうに笑っているが、背後のギルベルトはもはや静かなる怒りを通り越し、全身から黒いオーラを噴出させていた。


「……マルタ。今すぐ、この王子とこの蛇を砂漠の砂に埋める許可をくれ。エルセの純粋な魂が、男たちの低俗な欲望によって汚染されている……!」

「ギルベルト、鎮まりなさい。あなたがいちいち騒ぐ方が、宴の空気を汚しています」


 マルタが扇子でギルベルトの額をピシャリと叩く。彼女は冷静に、彼らの均衡を保っていた。





 さて。事件が起きたのは、宴もたけなわとなった頃だった。


「あら、このお酒……とっても美味しそう」


 エルセリアが、テーブルに置かれていた、ひときわ濃厚なクリムゾン色の酒瓶に手を伸ばした。


「あ、エルセリア、それは——」


 エドワードが制止しようとしたが、時すでに遅し。エルセリアは、その美しい液体を一口、コクリと飲み干してしまった。


 それは、クレイウス王族に伝わる秘蔵酒『砂漠の焔』。味こそ極上の蜂蜜のように甘いが、その度数は、一口で大男を昏倒させるほどに高い。


「……?」


 エルセリアの動きが、ぴたりと止まった。真っ白な彼女の頬が、みるみるうちに熟した林檎のように赤く染まっていく。紫の瞳はとろんと潤み、視線が定まらない。


「エルセ!? 大丈夫ですか!」


 ギルベルトが慌てて駆け寄り、彼女の肩を支える。すると、エルセリアは「ふふっ」と、普段の彼女からは想像もつかないような、蕩けるような笑みを浮かべた。


「……あ、ギルだぁ……。ねえ、ギル。どうして、お顔が、ふたつ……あるのぉ?」

「………………(尊死)」


 ギルベルトは、その場に膝から崩れ落ちそうになった。酔ったエルセリアは、完全に理性の壁が崩壊している。彼女はふらふらと、ギルベルトの首に細い腕を絡ませ、その胸元に顔をすり寄せた。


「ギルの匂い、大好き……。いつも、私を守ってくれる……。……ねえ、もっと、ぎゅーって、して?」

「——っ!?!?!?」


 ギルベルトの脳内で、何かが音を立てて千切れた。彼の顔面はエルセリアの頬よりも赤くなり、鼻から何らかの液体が垂れそうになるのを必死で耐えている。


「ちょ、ちょっと待て、ギルベルト! 今のエルセリアは正常な判断ができていない! その抱擁を今すぐ解け! 公序良俗に反するぞ!」

「うるさい暴君! エルセが『ぎゅーして』と仰っているんだ! これは天啓だ、神の宣告だ! 俺は今、この瞬間のために生まれてきたんだ!!」

「カイン、止めろ! あいつ、このままエルセリアを抱えて自分の寝室に逃亡する気だぞ!」

「無理だよ、今のあいつの魔力、精霊王様より強くなってるんじゃないか……!?」


 エルセリアはさらに、ギルベルトの耳元で「……ギル……すきよ……」と、熱い吐息混じりに囁いた。その瞬間、ギルベルトの眼光がギラリと怪しく光った。


「…………マルタ。悪いが、今夜の俺の理性は、月の彼方に飛ばすことにする。……エルセを、連れて行く」


 ギルベルトは、エルセリアを軽々と横抱きにし、部屋の出口へと猛スピードで歩き出した。


「待ちなさい、狂犬」


 マルタが鋭い蹴りをギルベルトの膝裏に見舞うが、今の彼は鉄塊のごとき頑強さでそれを無視した。


「エルセが、俺を好きだと。愛していると。……あぁ、神よ。今すぐ世界を滅ぼしても構わない。この腕の中にある幸せだけが、俺の真実だ……」

「滅ぼすな! あとエルセは『愛してる』とは言ってない、言ったとしても『好き』だけだ!」

「同じことだ!」

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