第51話 慈雨の凱旋
クレイウス王宮、神聖なる園。そこは今、硝煙と呪詛の残滓、そして鋭い金属音が交錯する戦場と化していた。
「そこだ、鼠め!」
カインの放った短剣が、石柱の影に潜んでいた黒衣の魔術師の肩を正確に貫いた。悲鳴と共に転がり出たのは、王宮内に深く根を張っている反王派貴族の息がかかった魔術師たちだ。彼らは精霊を操る禁忌の触媒を手に、必死に呪文を唱えようとするが、その喉元にエドワードの冷徹な剣先が突きつけられる。
「もはや逃げ場はない。我が国の精霊を冒涜し、賓客を傷つけた罪、その身を以て贖うがいい」
エドワードの背後に控えるのは、一人で一個小隊に匹敵する殺気を放つマルタである。
「殿下、殺してはいけません。黒幕が誰か、吐かせるまでは。……もっとも、爪の一枚や二枚、剥がしたところで死にはしませんが」
マルタの声は、氷よりも冷たかった。彼女の周囲には、すでに無力化され、奇妙な角度で地面に転がっている刺客たちが何人もいる。マルタの怒りは頂点に達していたのだ。お嬢様を消し去ったこの呪わしい空間のすべてを、彼女は根絶やしにするつもりだった。
魔術師の一人が、狂ったように笑い声を上げる。
「無駄だ! あの女は死んだ。泉の底に沈んだものは二度と還らぬ! クレイウスは我らと共に干らび、滅びるのだ——!」
その言葉が放たれた、次の瞬間だった。
ゴォォォォォッ!!
王宮全体を揺らすような重低音が響き、園の中央にある聖なる泉が、突如として爆発したかのように噴き上がった。それはどす黒い泥水ではない。陽光を反射して七色に輝く、圧倒的に清浄な水の柱。
そして、空が。
数年間、厚い雲と熱砂に覆われていたクレイウスの天が割れ、そこから信じられないほどの水が降り注ぎ始めた。
「……雨? 雨だ! 数年ぶりの、恵みの雨だ!!」
騎士たちが歓喜の声を上げる中、噴水の頂点から、二つの影がゆっくりと舞い降りてきた。
黄金の輝きを纏い、まるで天界から降り立った女神のように神々しい姿のエルセリア。そして、彼女を横抱きにし、血塗れのボロボロな姿でありながら、誰にも彼女を触れさせまいという凄まじい独占欲を全身から放つギルベルト。
二人の周囲には、呪いから解放された無数の小さな精霊たちが、祝福のダンスを踊るように光り輝きながら舞っている。
「……お嬢様!!」
マルタが、持っていた隠し針を地面に落とし、なりふり構わず駆け寄った。エドワードも、カインも、剣を鞘に収めることさえ忘れてその光景に見入っていた。
ギルベルトは、雨に濡れる石畳の上に静かに着地した。彼は周囲の驚愕や歓喜など一切目に入っていない様子で、腕の中のエルセリアをじっと見つめている。
「……エルセ。冷えませんか。……あぁ、やはりこの国の雨は少し不潔です。すぐに天幕を用意させ、俺の体温で温め直さなければ……」
「ギル、もう大丈夫よ。……降ろしてちょうだい、皆さんが見ていらっしゃるわ」
エルセリアが頬を赤らめて囁くが、ギルベルトは「いいえ、あなたの足が汚れに触れるなど許されません」と、全く聞き入れる様子がない。
「……全く、あの狂犬め。生きて還ってきたと思えば、これですか」
駆け寄ったマルタが、数歩手前で足を止め、深いため息をついた。その瞳には、安堵の涙が溜まっている。しかし、いつものようにエルセリアを独占しているギルベルトの不敬な態度を見て、彼女の口元には皮肉めいた、けれど嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「マルタ……! ごめんなさい、心配をかけたわね」
エルセリアが腕の中から手を伸ばすと、マルタはその手を両手で包み込み、恭しく額を寄せた。
「……おかえりなさいませ、お嬢様。あなたがいない間、この世界がどれほど退屈だったか。……あと、そこの狂犬。その腕を今すぐ離さないなら、今夜の夕食に痺れ薬を混ぜますよ」
「ふん。エルセの温もりを知らない哀れな侍女の発言だな。だが、今だけは許そう。俺もエルセも、機嫌がいい」
ギルベルトは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、さらに強くエルセリアを抱き寄せた。
「エルセリア……ギルベルト。……本当によくやってくれた。君たちは我が国の、真の英雄だ」
エドワードが歩み寄り、深く頭を垂れた。降り注ぐ慈雨は、王宮だけでなく、クレイウスの全土を潤し始めていた。枯れた大地が息を吹き返し、人々の絶望が洗い流されていく。
「……エルセ。温かな部屋で、ゆっくりしましょう」
「ええ。……ありがとう、ギル」
精霊の祝福に満ちた飴。砂漠の国に約束された、新たな歴史の始まりの合図であった。




