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第50話 救い


 血の匂いと、澱んだ魔力が満ちる深淵の底。死の淵から引き戻されたエルセリアは、かすむ視界の中で、自分を抱きしめるギルベルトの表情を捉えていた。


「……エルセ。……あぁ、エルセリア……! なぜ、こんな無茶を……! 俺が、俺が戻るのを待っていればよかったんです! あなたの身体に傷が付くなど、あってはならないことなのに……俺が、頼りないばかりに……!!」


 ギルベルトの声は震え、その金色の瞳からは後悔と怒りが混ざり合った涙が溢れている。彼は自分の腕の中にいる主の無事を確認しながらも、その無謀さを責めずにはいられないようだった。


 だが、エルセリアもまた、震える手でギルベルトの胸に手を置いた。


「……何を、言っているの……。怒りたいのは、私の方だわ……っ!!」

「え……?」


 エルセリアの大きな瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。それは痛みによるものではなく、心の奥底で煮え切っていた、彼に対する烈火のような怒りと愛の爆発だった。


「先にいなくなったのは、ギルじゃない……! 信じて待てなんて、一方的に私を置いていって……暗くて冷たい場所に、一人で勝手に行って……! 私がどれだけ、怖かったと思っているの!? あなたが戻ってこない世界なんて、私には……何の価値もないのに……!!」

「……え、エルセ……」

「バカギルベルト! 私を守ると言いながら、私を一番泣かせたのはあなたです! もう、絶対に許しません! ……次に勝手にいなくなったら、私、本当に許さないから……っ!」


 子供のように泣きじゃくりながら怒鳴るエルセリアの姿に、ギルベルトは完全に毒気を抜かれた。彼女がこれほど感情を剥き出しにして自分を求めたことは、かつてなかった。彼は言葉を失い、ただ彼女の涙を汚れた指先で、壊れ物を扱うようにそっと拭った。


「……すみません……。エルセを、これほどまでに悲しませるなど……騎士失格です。……お叱りは、あとでいくらでも。今は、あのおぞましい呪いの核を、俺が壊してきます。エルセはここで——」

「いいえ。一緒に、行きます」


 エルセリアはギルベルトの手を借りて、ふらつきながらも力強く立ち上がった。脇腹の傷は、ギルベルトの必死の魔力供給によって塞がっている。


「私が浄化し、あなたが道を切り拓く。……二人でなければ、精霊王様は救えないわ」


 二人の視線が重なる。アメジストの瞳に見つめられたギルベルトは、負けたとばかりに両手をあげた。


「……御意。エルセの仰せのままに。……この地獄の底に、最高の夜明けを連れてきましょう」


 二人は、巨大な黒い茨の繭——精霊王が囚われた檻へと歩み寄った。茨はエルセリアの魔力を感知し、再び禍々しい殺気を放って襲いかかる。だが、今度は彼女が一人で傷つくことはない。


「邪魔だ」


 ギルベルトが前へ出る。その手には、自らの血を魔力で固めたような、紅黒く輝く双剣が握られている。


 彼は踊るように茨の海へ飛び込んだ。神速の剣筋が、エルセリアを狙う茨を次々と粉砕していく。呪毒の霧が彼を包もうとするが、彼は一瞥するだけで闇を散らした。


「エルセ、今です! あなたの力を!!」

「ええ……! 精霊王様、もう、眠らなくていいのですよ!」


 エルセリアは両手を広げ、自身の魂を歌に乗せるようにして解き放った。

 翡翠の都で聞いた少年の悲しみ。クレイウスの民の渇き。そして、隣で戦うギルベルトへの、熱い信頼。そのすべてが混ざり合った、真珠色と黄金色が混じり合う究極の浄化光。


 光の奔流が、ギルベルトが切り拓いた道を通って繭の中心へと直撃した。茨が悲鳴のような音を立てて燃え上がり、灰となって崩れ落ちていく。その奥に眠っていた、巨大な光の繭が、内側からパキリと音を立てて割れた。


「——っ……!!」


 眩い光が空間を支配した。黒い泥に染まっていた水が、一瞬にしてクリスタルのような輝きを取り戻していく。腐敗臭は消え、代わりに雨上がりの森のような、清廉な香りが満ちた。


 繭の中から現れたのは、クレイウスの歴史そのものとも言える、巨大な翼を持つ美しい王の姿だった。精霊王はゆっくりと目を開け、目の前にいる二人を見つめる。


『……人の子よ。……我が悪夢を、終わらせてくれたのか……』


 その声は、渇ききった大地に染み渡る慈雨のように穏やかだった。精霊王の目覚めと共に、周囲の空間が急速に輝きを増していく。空間は崩壊を始め、現世へと繋がる道が黄金の光の柱となって立ち昇った。


「ギル……やったのね、私たち……」


 力が抜け、倒れそうになるエルセリアを、ギルベルトが横からしっかりと抱き止めた。


「ええ、エルセの勝利です。……さあ、帰りましょう。あなたの帰還を待つ、太陽の下へ」


 二人は光の柱に包まれ、深淵を去る。クレイウスの空には、数ヶ月ぶり、いや、数年ぶりとなる待望の雨が、祝福を込めて降り注ごうとしていた。

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