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第44話 拒絶の境界


「……ギル? ギル、冗談はやめて。お願い、出てきて……!」


 泉の縁に崩れ落ちたエルセリアの声は、ひび割れた大地に吸い込まれるように消えていく。十分が過ぎ、十五分が過ぎた。もはや、どんな熟練の泳ぎ手であっても無事ではいられない時間が経過している。紫色の澱みは、まるで満腹になった怪物が眠りについたかのように、不気味なほど静まり返っていた。


「エルセリア、落ち着くんだ。……我が国の魔導師たちが、いま総出で術式を解析している」

「お嬢様、離れてください。その水に触れてはいけません」


 エドワードとマルタが彼女の肩を掴み、後ろへ引き戻そうとする。しかし、今の彼女には彼らの声が遠い国の出来事のようにしか聞こえなかった。


 視界が涙で滲み、熱い雫が頬を伝って地面に落ちる。


(あんなに自信満々で、「信じて待っていてください」と言ったじゃない。いつだって私の後ろにいて、私が名を呼べば応えてくれたじゃない……)


「嫌……。ギルがいない世界なんて、私は……!」


 胸の奥が、引き裂かれるように痛い。前世で彼女を殺したはずの彼は、今では彼女のすべてを支えている。重すぎるほどの愛で、エルセリアという折れそうな枝を支え続けてくれたのは彼だったのだ。


「離して! 私が行くわ、ギルを助けにいくの!」


 エルセリアは、自分でも驚くほどの力で二人の手を振り払った。淑女としての振る舞いも、聖女としての矜持も、今はどうでもよかった。ただ、あの大きな背中を、冷たい底から引きずり出したかった。


「駄目だ、エルセリア! 君まで失うわけにはいかない!」

「行かせて! 彼がいないなら、私がここにいる意味なんてないわ!」


 エルセリアは制止を振り切って紫色の泉へと駆け出した。そのまま、ギルベルトを追って水面へと身を投げようとした——その瞬間。


 ガツンッ!


 まるで、目に見えない巨大な鉄板に衝突したような衝撃が走り、エルセリアは地面へと跳ね返される。


「……っ!? あいた……」


 尻餅をつき、呆然と水面を見上げる。水しぶき一つ上がっていない。エルセリアは確かに泉に飛び込んだはずなのに、水面に触れることすらできず、透明な壁に拒絶されたのだ。


「お嬢様! 大丈夫ですか!」

「今のは……結界か!? しかし、我が国の術師たちはまだ何も……」


 エドワードが驚愕して泉を凝視する。エルセリアは再び立ち上がり、震える手で泉の空間をなぞった。


 指先が空中で止まる。そこには、真珠色の柔らかな光を放つ、強固な結界が展開されていた。


「……これ、は……」


 エルセリアはその魔力の色を知っていた。これは彼女の魔力だ。先ほど枯死の村で、無意識のうちに大地へ放ったあの力。それが、彼女の意志とは無関係に、泉を包囲するように張り巡らされている。


「違う……私、こんな結界、張ってない……! 通して、お願い、通してちょうだい!」


 彼女は結界を叩き、泣き叫ぶ。しかし、結界は非情なほどに堅牢だった。それどころか、エルセリアが必死に魔力を込めてこじ開けようとすればするほど、彼女の魔力を吸い取ってさらにその壁を厚くしていく。


「エルセ……落ち着いて。よく見てごらん」


 カインが、エルセリアの背後で低く呟いた。彼の碧い瞳は、結界の内側をじっと見つめている。


「この結界……外から君が入るのを防いでいるんじゃない。中から何かが、君を巻き込まないように、君の魔力を誘導して鍵をかけているんだ。……あいつだ。あの駄犬が、底から君の魔力を利用して、君を近づけないようにしているんだよ」

「ギル、が……?」

「ああ。……あいつは死んでない。死んでないどころか、エルセをこの毒に入らせないために、必死で君の魔力を使って君を締め出している。……全くだ、どこまで過保護なんだよ、あの男は」


 カインの声は少し震えていたが、そこには確かな信頼が混じっていた。

 エルセリアは結界に額を押し当て、涙を流し続けた。彼女の力が、彼女自身を拒んでいる。


(ギル。あなたは、そんな底知れない場所にいながら、まだ私を守ろうとしているの?  自分を助けに来ることさえ許さないほどに、私を大切だと思っているの?)


「バカ……。大バカよ、ギルベルト……。私を一人にしないでって、言ったじゃない……」


 泉は沈黙を守り、エルセリアが放った光の壁は、主の命を忠実に守るように輝き続けている。彼女はただ、自分の無力さと、彼が差し向けてくる一方的な防壁に阻まれ、紫に濁る水面を涙で見守ることしかできなかった。

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