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第43話 底知れぬ深淵


 紫の澱みに身を投じた瞬間、ギルベルトの視界はどろりとした闇に塗り潰された。通常の水であれば、彼の研ぎ澄まされた視覚は数メートル先の小魚の動きすら捉える。だが、この聖なる泉の内部は水であって水ではない。粘りつく呪い、そして肺を焼き切ろうとする腐食の毒。


「……五月蝿いな」


 耳元で、死者の呻きのような幻聴が響く。だが、ギルベルトは心底疎ましそうに、鼻から空気を一つ吐き出した。彼にとって、これしきの毒は幼少期にマルタから受けた教育の数々に比べれば、白ワインと見紛うほどに退屈な代物だ。


 彼は迷いなく、さらに深くへと潜っていく。エルセリアを不安にさせている原因、それを排除する。彼の頭にあるのはそれだけだった。


 だが、水深十メートルを超えたあたりで、突如として感覚が狂った。上下の概念が消え、急激な重力の歪みが彼を襲う。


「なんだ……?」


 気泡が渦を巻き、視界が白光に包まれる。次の瞬間、ギルベルトは濡れた石畳の上に膝をついていた。


「……ここは?」


 そこは、泉の底とは思えない空間だった。空には紫の雲が淀み、周囲にはクレイウスの王宮を模したような、しかし崩れかけた石柱が幾本も立っている。何より異様なのは、その空間の至る所に張り巡らされた茨の鎖だった。


 鎖の先、空間の中央には、透き通るような青い光を放つ小さな存在たちが、幾重にも重なる茨に締め付けられ、悲鳴を上げている。


『……ア、アァ……』『クライ……クルシイ……』


 それは、クレイウスの繁栄を支えてきた水の精霊たちだった。精霊たちは鎖によってその魔力を吸い取られ、その代わりにどす黒い呪毒を注入されている。この空間で汚染された精霊たちの苦しみが、現世の泉を濁らせ、クレイウスの大地を干上がらせていたのだ。


 ギルベルトは短剣を抜き放ち、一歩、歩を進める。すると、鎖の奥から精霊たちの微かな視線が彼に向けられた。


『ニンゲン……? ダメ……ココハ、ノロイノ、オリ……』『アナタモ……ノマレル……イッショニ、キエテシマウ……』


 精霊たちの絶望に満ちた予言。だが、ギルベルトはそれを鼻で笑った。


「消える? 俺が? 冗談はやめてもらおう。……俺には、帰りを待っている方がいる。エルセがこの俺を信じて待っていらっしゃるのだ。その約束を破るなど、死んでも御免だ」


 ギルベルトは茨の鎖に手をかける。触れた瞬間、指先の皮膚が焼き切れ、黒い煙が上がる。常人なら発狂するほどの激痛。だが、彼は眉一つ動かさず、むしろ笑みすら浮かべて鎖を握り潰そうとした。


『……ムダ、ダヨ……。コノ鎖ハ、ニンゲンノチカラデハ……壊セナイ……』

「あぁ、そうだろうな。これは人の悪意そのものだ。だが、勘違いするな。俺がお前たちを救うわけではない」


 ギルベルトは鎖を握りしめたまま、精霊たちに向かって、誇らしげに、そして傲慢に言い放った。


「震えて待っているがいい。お前たちを救ってくださる方がいらっしゃる。世界で唯一無二の、俺の主。天上の星すらもその微笑みで跪かせる、至高の宝物……エルセリアだ」

『エルセ……リア……?』

「そうだ。……あのお方がこの地を、そしてお前たちの苦しみを知れば、その慈愛に満ちた御手で、こんな不潔な呪いなど瞬時に霧散させてしまうだろう。あのお方の光の前に、この程度の闇が何秒保てるか、賭けてもいい」


 ギルベルトの脳裏には、エルセリアの紫色の瞳が焼き付いている。彼にとっては、精霊たちを救うことなどどうでもいい。エルセリアが「救いたい」と願うであろう対象を、守りたいだけ。それが、彼の務めなのだ。


『……狂ッテイル……』


 精霊の一人が呟く。


「あぁ。狂っているとも。エルセに出会ったその日から、俺のすべてはあのお方のためだけに回っている。……だから精霊ども、お前たちも少しは希望を持て。お前たちは運がいい。俺が、お前たちの命を無理やりにでも繋ぎ止めておいてやるからな」


 ギルベルトは、茨の鎖から溢れ出す呪毒を自らの体に引き受け、逆流させるように魔力を叩き込んだ。


(……エルセリア。すべてが終わったら、俺の頭を撫でてくださいね)

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