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番外編 波止場の守り人たち


 エルセリアがクレイウス王国へ向けて旅立ってから、数週間が過ぎた。主を失った『薬屋エルセ』の店舗は、現在、固く閉ざされている。……はずなのだが、その軒先には今日も今日とて、奇妙な光景が広がっていた。


「おい、そこの樽! 置き方がなっとらねえぞ。エルセさんが帰ってきたときに、つまづいて転んだらどうするんだ!」


 怒鳴り声を上げているのはバルドスだ。彼は自分の仕事の仕入れそっちのけで、薬屋の前の広場を軍隊の演習場のように掃除させていた。


「へい、親分! でも、この掃除……今日で五回目っすよ。もう石畳が削れて光り輝いてます」

「馬鹿野郎、光るくらいで丁度いいんだ。あのお方は太陽のようなお方なんだからな。あと、そっちの看板の埃を拭け。一粒でも残ってたら、俺が狂犬の野郎に代わってお前を海に沈めてやる」


 バルドスは腕組みをして、誇らしげに閉まった店を見上げた。彼にとってエルセリアは、彼の命よりも大事な娘の命の恩人であり、この荒くれた港町に平穏という名の奇跡をもたらした恩人だ。そして、彼女がいない今、この店を守ることは街全体の至上命題となっていた。


 一方、波止場に近い小さな市場では、おかみさんたちが集まって「エルセリア・ロス」に陥っていた。


「ねえ、聞いてよ。うちの亭主ったら、最近また腰が痛いって騒ぎ出しちゃって。エルセ先生の特製シップがないと、もう夜も眠れないってさ」

「うちもそうよ。エルセ先生がいた頃は、街全体がいい匂いがしてたのに……。今はなんだか、潮の匂いがきつくなった気がするわね」

「それにしても、あの付き添いのギルベルトさん。あんなに物騒な男だと思ってたけど、いなくなると寂しいものね。……あの子、ちゃんと正気を保ててるかしら」

「無理でしょ。今頃、砂漠のど真ん中でエルセ先生への愛を叫んで、砂嵐でも起こしてんじゃない?」


 おかみさんたちはワハハと笑いながらも、時折、王都へと続く街道の先を寂しそうに見つめていた。


 そんな中、リナは店の裏口にある小さな薬草園にいた。エルセリアが旅立つ前、リナに「水やりをお願いね」と託した大切な場所だ。


「……お水、あげたよ。エルセ様」


 リナは一生懸命にジョウロで水を撒き、雑草を抜く。ギルベルトからは「一株でも枯らしたらエルセが悲しみます。お分かりですよね、リナ殿」という凄まじい脅し(本人は激励のつもり)を受けていたが、リナは怖がっていなかった。むしろ、この庭を守ることが、自分とエルセリアを繋ぐ唯一の絆だと信じている。


「ねえ、聞いて。今日ね、パパがエルセ様のために凱旋パレードの練習をしてたんだよ。すっごく変な踊りだったんだから」


 リナが苗に話しかけていると、ふと、背後に気配を感じた。

 振り返ると、そこには見慣れない豪華な服を着た男たちが数人、店の周囲を嗅ぎ回るように歩いていた。


「……ここか。出来損ないが、聖女の真似事をしているという店は」


 男たちの言葉に、リナの体が強張る。彼らの胸元には、アスムート王家の紋章——かつてエルセリアを苦しめた者達の印が刻まれていた。


「ふん、ただのボロ屋ではないか。魔力を搾り取れるだけ搾り取って、用済みになれば捨てる。それが我らのやり方だ。……さて、留守の間に何か使える薬のレシピでも盗んでおくとしようか」


 男たちが店の扉に手をかけようとした、その時だった。


「おーおー。お客かな?」


 低く、地を這うような声。彼らの背後から現れたのは、バルドスと、その配下の屈強な男たち。全員が包丁や棍棒、巨大な魚の骨(武器代わり)を手に、一切笑っていない目で彼らを見下ろしていた。


「あ、アスムートの使節団だぞ! どけ、この野蛮な漁師ども!」

「野蛮、ねえ。……おい、お前ら。エルセさんがこの店を去るとき、何て言ったか覚えてるか?」


 バルドスの問いに、部下たちが声を揃えて唱和する。


『皆さん、ありがとうございます。……でも、そんなに悲しまないで。必ず帰ってきます。少し、お隣の国を助けに行くだけですから』

「……そうだ。エルセさんは世界を救いに行く。そして、あの獣からは『不審者が来たら、死なない程度に挽き肉にして肥料にしろ』と言葉を預かってる」


 バルドスがゴキリと拳を鳴らす。


「悪いが、この店は今、セレンの聖域なんだ。……ゴミは、海に返すのがこの街の決まりでな」


 数分後。アスムートの使者たちは、身ぐるみを剥がされ、樽に詰められて港に浮かべられた。彼らは二度とこの街の土を踏むことはないだろう。




 夕暮れ。平和を取り戻した薬屋の前で、バルドスはリナの頭を不器用に撫でた。


「安心しろ、リナ。あのお方が帰ってくるまで、この街の連中全員がガードマンだ」

「うん! ……ねえ、パパ。エルセ様、今頃どうしてるかな?」

「さあな。まあ、あのアホ犬がそばにいるんだ。案外、砂漠の国を丸ごと手懐けて、女王様にでもなってるかもしれねえぞ」


 セレンの潮風が、エルセリアのいない薬屋の看板を優しく揺らす。たとえ主がいなくても、彼女が植えた「善意」という種は、この街の人々の心の中で、力強く根を張り、花を咲かせ続けていた。(……エルセさん、ギルベルト、マルタ。早く帰ってこいよ。酒を冷やして待ってるからな)


 港町セレン。そこは過保護な市民たちが、一人の少女の帰還を待ち続ける、温かい家なのであった。

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