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第42話 聖なる泉


 王宮の深部、歴代の王族のみが入ることを許される聖なる園。そこにあるはずの涸れずの泉こと『聖なる泉』は、今や見る影もなかった。かつては水晶のように澄んでいたという水面は、どろりと濁った濃紫色の澱みに覆われ、水面からは硫黄に似た、鼻を突く不快な腐敗臭が漂っている。


「……酷い。これが、国の命運を握る源泉だなんて」


 エルセリアが泉の縁に立つと、足元の草花までもがどす黒く変色しているのが見えた。アルフレッド国王が沈痛な面持ちで口を開く。


「半年前からだ。前触れもなく水が濁り始め、周囲の草木が死に絶えた。魔導師たちに調査させたが、原因は特定できず……ただ強力な呪毒に侵されているとしか分からなかったのだ」


 エルセリアは泉に手をかざし、目を閉じて魔力の流れを探った。


 ……おかしい。もしこれが自然の枯渇や単なる汚染なら、魔力の波形は弱まるはずだ。けれど、この泉の底からは、何か粘りつくような、悪意に満ちた人工的な魔力の拍動が感じられる。まるで、誰かが意図的にこの場所に毒の楔を打ち込んだかのような……。


「——エルセ、下がってください。この水、普通ではありません」


 鋭い声と共に、ギルベルトが彼女の前に割って入った。彼はいつもの狂信的な微笑みを消し、狩人のような鋭い眼差しで紫の澱みを見つめている。カインが彼の隣に並び立ち、泉を覗き込んだ。


「……ギルベルトの言う通りだ。これは人為的なものだと思われる。それも、弱弱しいものではない。もっと陰惨で、絡みつくような……」

「でも、どうしてこんなところに……」

「それを確かめる必要があります。……エルセ、俺が潜って底を調べてきます」

「えっ!? いけないわ、ギル! 毒の沼のような場所に……」


 エルセリアは思わず彼の腕を掴んだ。しかし、ギルベルトは優しく、断固とした手つきで彼女の手を解き、その手の甲に一度だけ、深い誓いを込めた口づけをする。


「案ずることはありません。俺の体は、あらゆる毒に対する耐性を植え付けている、死に損ないの器です。……それに、エルセを不安にさせる何かがこの底に沈んでいるなら、俺はそれを粉々に砕く義務がある」

「ギルベルト、無理はするな。潜水用の魔導具を……」


 エドワードの言葉が終わるより先に、ギルベルトは漆黒のジャケットを脱ぎ捨て、身軽なシャツ姿になった。


「エルセ。……俺を、信じて待っていてください」


 彼はエルセリアにだけ聞こえるような小さな声でそう囁くと、迷いなくその紫の泉へと身を投げた。水しぶきが上がり、彼の姿は瞬く間に濁った水の中へと消えていった。




 ◇ ◇ ◇




 一分が過ぎた。泉の表面には、彼が飛び込んだ際に生じた波紋が未だに残っている。


「……お嬢様、落ち着いてください。あの男のことです、底で怪しい物を仕留めてから戻ってくるつもりでしょう」


 マルタがエルセリアの肩を抱くが、彼女の手も心なしか微かに震えている。

 二分、三分……。時間は無慈悲に過ぎていく。


 カインが眉根を寄せ、剣の柄に手をかけた。


「……おかしいな。あいつの身体能力であっても、息継ぎに戻る必要はあるだろう。……まさか、底に何か強力な結界でもあるのか?」

「ギル……ギル、戻ってきてちょうだい!」


 エルセリアは泉の縁に駆け寄り、濁った水面に向かって叫んだ。返ってくるのは、気味の悪い水の跳ねる音と、静寂だけ。水面に浮かんでいた紫の澱みが、心なしかさっきよりも濃くなり、まるで侵入者を飲み込んだまま口を閉ざしたかのように静まり返っている。


「エドワード、兵を呼べ! 魔法で水を抜くんだ!」


 国王の指示が飛ぶ。しかし、エドワードは苦渋に満ちた表情で首を振った。


「父上、ダメです! この泉は王宮の支柱そのものと連結している。強引な排水は王宮の崩壊を招きかねない……。それに、この呪毒の霧は魔法そのものを弾いている!」


 五分。十分。

 ギルベルトは戻ってこない。あんなに「一秒だってエルセから離れたくない」と豪語していた彼が。エルセリアを一人にして、暗く冷たい底から現れない。


「……そんな……。ギル、嘘でしょう?」


 エルセリアは膝を突き、紫の水面に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、氷のような冷たさと、心臓を鷲掴みにされるような悪意が指先から伝わってきた。


 主を飲み込んだ泉は、沈黙を守り続けている。いつもなら、エルセリアが名を呼べば、どこからともなく現れて「呼びましたか、エルセ!」と微笑んでくれるはずの黒い影が、今はいない。


「ギルベルト……っ!」


 エルセリアの悲痛な叫びだけが、陽の当たらない聖なる園に虚しく響き渡っていた。

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