第4話 優秀な侍女の教育日誌
優秀な侍女マルタは、およそ侍女というものが持ち合わせるべきではないことを考えながら、手にしたフライパンを構える。視線の先には、廊下の隅で気配を消している黒い影。エルセリアお嬢様が拾ってしまった、危ない獣ことギルベルトである。
(……やれやれ。お嬢様の慈愛も、ここまでくると一種の兵器ですね)
マルタは内心でため息をつく。あの日、別邸に連れられたギルベルトは、まるで仔犬のようにエルセリアに懐いた。だが、その懐き方が異常だ。彼は自分以外の人間が彼女に近づくことを、本能的な殺気で拒絶しているのである。
「そこの獣。お嬢様の部屋に無断で入ろうとするのは、これで三度目ですか」
マルタが冷ややかに告げると、影が揺れた。次の瞬間、ギルベルトが手にした訓練用の短剣が、彼女の喉元を正確に狙って突き出される。普通の侍女であれば、この一撃で簡単に死んでしまうだろう。訓練用の刃とはいえ、勢いがあれば人は殺せる。
ガィィン!
彼女は手にしたフライパンの底で、その刃を軽やかに弾き飛ばした。凄まじい衝撃音が響くが、彼女の表情は鉄仮面のように動かない。
「……死ね、仮面女。エルセリアに触れていいのは、俺だけだ」
「あら。私は仮面など付けていませんよ。あなたの拙い動き、まるでスローモーションのように見えます。それから、お嬢様にお仕えする者が『死ね』などという下品な言葉を使ってはいけません。五百回、美辞麗句の写経を追加しておきましょう。あと、お嬢様のことは名で呼ぶのではなく『お嬢様』とお呼びするようにと何度も申しているでしょう」
ギルベルトは金色の瞳に殺気を込め、獣のように低く唸った。マルタの的確な「教育」を経て、彼の体格は見違えるほど逞しくなり、その動きは洗練された暗殺術のそれへと昇華されつつあった。だが、マルタからすれば、まだまだ甘い。
「お嬢様は『優しくて素敵な騎士』を夢見ておいでです。あなたが今のような生臭い獣のままで隣に立てば、お嬢様はいずれ幻滅し、他の騎士を求められることでしょう。よろしいのですか?」
「…………っ」
エルセリアの名前を出した瞬間、ギルベルトの殺気が霧散した。彼は悔しそうに唇を噛み、弾き飛ばされた短剣を拾い上げる。マルタはこの「弱点」を最大限利用することに決めていた。
「お嬢様の前に出るときは、徹底的に従順な犬を演じなさい。それができないのであれば、即刻保健所……失礼、元の場所に叩き返します」
「……どうすればいい」
「まずは笑顔の練習です。顔の筋肉を三ミリ上げなさい。そのような腐った笑顔ではなく、春の陽だまりのような微笑みです」
ギルベルトが顔を歪ませる。引き攣ったその表情は、呪いの仮面のようだった。マルタは容赦なくフライパンの縁で彼の額を小突く。
「やり直し。お嬢様が好むのは、控えめで、健気で、放っておけない者です。血を浴びた手でお嬢様の手を握るつもりですか? その手はお嬢様にお花を捧げるために綺麗にしておきなさいと、初日に教えたはずです」
「……お前も笑ってないじゃないか」
「私は別です。あなたと違って、お嬢様に心から信頼されているので。あと、私のことは先輩か師匠を呼ぶように」
マルタの教育は過酷だった。お茶の淹れ方、ダンスのステップ、貴族社会の裏事情、そして何より、エルセリアを守るために必要な技術。夜遅くまで動き、深夜になって気を失うようにベッドに倒れる。ギルベルトはそのような生活を送っていた。
「お嬢様は尊い存在。あなたはまだ、お嬢様に相応しくない」「しかし、努力すればお嬢様の隣に影として寄り添うことは許しましょう」
何度も絶望に突き落とされ、何度も餌を与えられる。まさに、暗殺者が標的の精神を崩壊させる際の手法そのものだ。
「……マルタ、ギル。二人とも、またお話ししているの?」
彼らの声が聞こえたのか、扉を開けたエルセリアが鈴を転がすような声で呼びかけた。その瞬間、マルタの目の前にいた死神は、魔法のように姿を変える。
「お嬢様! はい、先輩に騎士としての所作を、とても厳……優しく教えていただいていました」
ギルベルトはエルセリアに駆け寄り、健気な少年の顔を見せる。その手には、いつの間にか庭で摘んだ小さな花が握られていた。
「あら、素敵なお花。ありがとう、ギル」
「……喜んでいただけて嬉しいです。お嬢様には、ずっと笑っていてほしいから」
(どの口が言うのですか、この狂犬が)
マルタはフライパンを背中に隠し、完璧な侍女の礼をとった。
「お嬢様。ギルベルトは非常に筋が良いですよ。最近では、自分の殺気……いえ、自分の感情をコントロールすることに長けてきました。……そうですよね、ギルベルト」
「……はい。先輩のご指導には、感謝しかありません(震え声)」
エルセリアは二人の「仲良しな」様子に目を細め、幸せそうに微笑んでいる。
彼女は気づいていない。知る必要もない。彼女の前にいる二人は、裏で彼女に害を成す人物を「掃除」していることに。
(お嬢様。あなたの優しさは、確かにこの獣を救いました。……ですがその結果、彼は最も厄介な化け物に成長してしまいそうですよ)
マルタは冷徹に現状を分析する。ギルベルトの執着は、もはや信仰を超えて一種の呪いに近い。エルセリアが望むのなら彼は聖者になるだろう。だが、もしエルセリアが誰かに傷つけられれば、彼は迷わずこの世界を地獄に変えるだろう。
「さて、お嬢様。そろそろティータイムの時間です。ギルベルト、学んだ通りに準備をなさい」
「……わかりました、先輩」
エルセリアが見ていない一瞬、ギルベルトはマルタに蛇のような冷たい視線を送る。マルタはそれを鼻で笑い飛ばした。
(せいぜい頑張りなさい。お嬢様の隣に並ぶには、その歪んだ本性をあと一万層ほど猫の皮で包む必要がありますからね)




