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第36話 黄金の王子の願い


 その日のエドワードは、いつもの派手な求愛者としての仮面を脱ぎ捨てていた。


 夕暮れの『薬屋エルセ』。客足が途絶え、ギルベルトが裏庭で不審者の掃討に精を出している隙を突き、彼は一人で店を訪れた。


「……珍しいですね。今日はバラの花束を持っていらっしゃらないなんて」


 エルセリアがカウンター越しに少し揶揄うように言うと、エドワードは力なく笑い、いつもの不敵な黄金の瞳に真剣な陰りを宿した。


「……エルセリア。今夜は男としてではなく、王子として君に頼みがある。……いや、これはクレイウスという国の土に生きる民、数万人の命を懸けた、切実な嘆願だ」


 彼が差し出したのは、クレイウス本国からの極秘親書だった。そこには、例年にない大旱魃(だいかんばつ)によって、国の生命線である大河が干上がり、農地が死に絶えようとしている惨状が記されていた。


「私の国は、砂漠の恩恵と共にある。だが、その均衡が崩れた。……君のそばにいて、確信したよ。君には、枯れ果てた大地に再び生命の息吹を吹き込み、魔力を大地へ還元する術があるのだと」


 エドワードは、いつものようにエルセリアの手を握ろうとはせず、その場に深く頭を下げた。


「エルセリア、手を貸してくれ。君を私の王妃にしたいという個人的な欲望も嘘ではない。だが、今はそれ以上に、渇きに苦しむ民を救いたい。……君を、クレイウスに招待したい。私を信じて、共に来てはくれないか」


 その声には、一国の王を継ぐ者としての重みと、自国を想う純粋な苦悩が滲んでいた。


 エルセリアが口を開こうとした瞬間、背後の影から、凍りつくような殺気と共にギルベルトが姿を現した。


「……エルセの魔力を他国の政治のために消費させるなど、言語道断。かつてエルセはその身を捧げすぎて、死の淵まで歩かされそうになったのですよ。……このお方を再びそんな地獄に引きずり込もうとするなら、クレイウスの王子といえど、この場でその傲慢な心臓を止めます」


 ギルベルトの瞳は、これまでにないほど冷酷な光を放っていた。彼にとって、エドワードの願いは、最愛の人を再び道具として扱う卑劣な宣言にしか聞こえなかったのだ。


「ギル、待って……」

「待てません、エルセ! 奴はあなたの優しさを人質に取ろうとしている。……エルセを救うのは俺の役目です。他人の犠牲の上に成り立つ平和など、守る価値もない!」


 禍々しい力が満ちる店内で、エドワードはギルベルトの剣幕に怯むことなく、真っ直ぐにエルセリアを見つめ続けた。


「……ギルベルト、君の言い分は正しい。私は恥知らずな要求をしている。……だが、エルセリア。君は、自分の目の前で誰かが喉の渇きで倒れているのを、無視できる女性ではないはずだ。……私と来れば、君の安全は私の命に代えても保証する。君の力を、破壊ではなく再生のために使わせてほしいのだ」


 沈黙が店を満たした。前世で、誰にも努力を認められずに結界を保ち、尽くし続けて最後には捨てられた記憶。しかし、セレンの街で多くの人々を救い、喜ばれる中で知った、誰かのために力を使うことへの喜び。


 エルセリアは、自分の手のひらを見つめた。そして、まだ怒りに震えているギルベルトの袖を、そっと引いた。


「ギル。私は、道具にはならないわ。……でも、今の私は薬師です。苦しむ人を救うのも、渇いた大地を癒やすのも、私の本懐です」

「エルセ!」

「行きましょう。……でもね、ギル。あなたが一緒でなければ、私は一歩もセレンを動けないわ。それから、マルタも、カインさんも一緒ね」


 エルセリアの言葉に、エドワードは弾かれたように顔を上げ、眩しいほどの笑顔を見せた。一方、ギルベルトは深い絶望と、それ以上に深いエルセリアに頼られた喜びの間で激しく葛藤し——。


「……わかりました。エルセがそう仰るなら、クレイウスを世界で一番安全な場所に変えてみせましょう。……暴君、一つでも不手際があれば、貴様の国ごと消し飛ばすからそのつもりで」

「ははは! それなら安心だ。……ありがとう、エルセリア。君の決断を、決して後悔させない」


 こうして、一行は港町セレンを離れ、砂漠の国クレイウスへと向かうことになった。

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