第30話 極秘報告書
【宛先】クレイウス王国 第一王子 エドワード・フォン・クレイウス閣下
【発信】秘匿工作員「蛇」
【件名】重要対象「薬師エルセ」に関する最終評価、及び周辺状況の異状について
閣下、お久しぶりです。そちらの気候はいかがでしょうか。こちらは潮風のせいで、せっかくの竪琴の弦がすぐに狂って困ります。
さて、ご命じいただいた奇跡の薬師エルセこと、元公爵令嬢エルセリア・ロシュフェルトについての調査ですが、現時点での結論を先に述べます。彼女は、閣下が当初危惧されていたような政治的野心を持つ扇動者ではありません。彼女はただの、度し難いほどに善良なお人好しです。
以下に、詳細を記します。
対象は現在、港町セレンにて平民を装い、小さな薬屋を営んでいます。数日間、客として、あるいは旅人として彼女を観察しましたが、彼女の医術……いや、その魔力は、本物です。かつてアスムート王国の結界を支えていたという噂は、おそらく過小評価でしょう。
彼女は、誰に対しても変わらぬ慈愛を持って接しています。先日、私が仕掛けた演技に対しても、彼女は疑うことなく膝を貸し、高価な薬湯を惜しみなく与えてくれました。
閣下、この女は危険です。 武器や暴力による危険ではありません。彼女の側にいると、我々のような影の住人は、自分がどれほど汚れているかを突きつけられ、それと同時に許されているという錯覚に陥る。これは我々にとって、死よりも恐ろしい毒です。
本報告の核心です。彼女の騎士、ギルベルトと名乗る青年について。 彼は単なる従者ではありません。暗殺者としての才能を持つ、完成された怪物です。
私の正体は、おそらく彼に見抜かれています。昨日、私は親睦(及び挑発)を兼ねて対象を口説いてみましたが、その際にこの青年から放たれた殺気は、クレイウスの精鋭騎士団を一人で壊滅させられるレベルのものでした。
彼の行動原理は、もはや忠誠ではありません。狂信と独占欲です。彼はエルセリアという光を自分の手の中に閉じ込めるためなら、世界を焼き尽くすことも厭わないでしょう。もし、我が国が彼女を強制的に確保しようとすれば、彼一人の手によって、クレイウスの王宮は三日で血の海に沈みます。断言します。
非常に厄介なことに、対象はこの狂犬のような男に対して無自覚で絶対的な信頼を寄せています。 私が彼女に甘い言葉を投げかけるたびに、彼女は頬を染め、動揺を見せます。しかし、それは異性としての興味というよりは、純粋な戸惑いに近い。
彼女の魂の根幹は、すでにあの狂犬……ギルベルトに深く根を下ろされています。私が彼女の手を取ったとき、彼女が真っ先に視線を向けたのは、私ではなく、背後にいたあの男でした。無意識のうちに自分の危機を彼に知らせる、あるいは彼の暴走を止めようとする、共依存にも似た深い絆。……閣下、入り込む余地は、現時点では一ミリもありません。
本対象の確保は、現時点では不可能かつ著しくハイリスクであると評価します。 彼女を無理に奪えば、あの狂犬が我が国へ牙を剥くことになります。
したがって、私の提案は以下の通りです。
放置しつつ、友好的な関係を維持すること。
私はもう少しこの街に留まり、旅人として彼女の信頼を勝ち取りたいと思います。 これは任務です。決して、彼女の淹れてくれるハーブティーが思いのほか美味しかったからとか、あの番犬が嫉妬で顔を歪める様が愉快だから、などという私情ではありません。
彼女の「聖女」としての力が、今後どのように変動するかを見守る必要があります。もし、彼女がアスムート王国の混乱に巻き込まれるようなことがあれば、その時こそ保護という名目で我が国へ招くチャンスとなるでしょう。
【追記】閣下、最後に一つだけ。彼女の薬屋には、マルタという名の侍女がおりますが、彼女もまた底が知れません。昨日、私が店の裏口から侵入を試みた際、彼女に真顔で「死にたいのですか?」と問いかけられました。セレンという街は、どうやら世界中の地獄の番犬たちが、一人の女神を囲んで休暇を楽しんでいる場所のようです。
命が惜しければ、刺客を送り込むのはおやめください。あと、絶対に絶対に、絶対に面白そうだからとこの街にいらっしゃることなどなさらないように。絶対に、ですよ。
……次は、私も笑いながら報告書を書ける自信がありません。




