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第3話 名もなき獣に捧ぐ


 ロシュフェルト公爵家の別邸は、王都から少し離れた森の近くにある。普段は管理人の老夫婦しかいないこの場所に、エルセリアは「街で倒れていた孤児を助けた」という名目で、少年を連れ込んだ。本邸に連れて行っても、家族によって追い出されてしまうと考えたからである。


「……マルタ。あまりそんなに睨まないであげて。怯えてしまうわ」

「お嬢様。これでも手加減している方です。この獣、隙あらば私の喉笛を掻き切ろうとしていましたからね。……本能だけで動く野良犬そのものです」


 別邸の客間のソファに座らされた少年は、周囲を威嚇するようにその細い体から殺気に似た力を漏らしていた。傷だらけの顔、泥によって固まってしまった黒髪。けれど、その隙間から覗く金色の瞳だけは、不気味なほど鮮やかに輝いている。


「さあ、まずはその汚れを落としましょう。マルタ、お湯の用意を。それと、薬箱も持ってきてくださる?」

「承知しました。ですが、お嬢様。この獣の爪は、私が事前に切らせていただきます。あなたの白い肌に傷がつくのは耐えられませんので」


 マルタは無表情のまま少年の手首を掴み、彼が抵抗する間もなく彼の鋭い爪を短く整えていった。




 やがて、マルタが用意した大きな桶に、温かいお湯が満たされた。エルセリアは、少年のボロボロな服を脱がせようとして、思わず息を呑んだ。


(……なんて、ひどい傷なの)


 小さな背中には、鞭で打たれたような古い傷跡や、熱いものを押し付けられたような火傷の跡が無数に刻まれていた。前世の彼——感情を消して彼女を殺したあの暗殺者は、こんな地獄を生き延びて、あの冷徹さを手に入れたのだろうか。


 胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、彼女は柔らかい布に石鹸をつけ、彼の体を優しく拭い始める。


「……っ!」


 お湯が傷に染みたのか、少年が小さく身を震わせる。彼女は反射的に、彼の背中を優しく撫でた。


「大丈夫よ。私は絶対に、痛いことはしませんから。……今まで、よく頑張って生きてきましたね」


 少年の体が、一瞬にして強張った。誰かに優しく触れられること自体が、彼にとって未知の恐怖、あるいは驚きだったのかもしれない。


 エルセリアは丁寧に、丁寧に、彼の体からこびりついた泥と血を落としていった。


 洗われて現れた彼の素顔は、驚くほど整っていた。前世で彼女を絶望させた、あの残酷なまでに美しい顔の幼い片鱗。彼女は最後に、彼の漆黒の髪を梳かしてやり、清潔な白いシャツを着せた。


「……ふぅ。見違えたわね。とても素敵になりましたよ」


 エルセリアが微笑みかけると、少年は初めて、金色の瞳に戸惑いの色を浮かべて彼女を見つめた。その瞳は、先ほどまでの刺々しい殺気ではなく、得体の知れない「何か」を見つめているようだ。


「……な、ぜ」


 少年が、掠れた声で呟く。


「なぜ、俺を……助けた。お前みたいな……綺麗な奴には。俺のことなんて……関係、ないだろ」


 その言葉を聞いて、エルセリアは彼と視線を合わせるために、床に膝をついた。そして、アメジストの瞳でまっすぐに彼を見つめる。


「関係がない、なんとことないわ。……私はただ、あなたのその綺麗な瞳に、憎しみだけを映してほしくなかったの」


 それは、彼女のエゴだった。彼が彼女を殺さない未来を選ぶために、彼女が彼を救ってあげようという、生存本能に近い願い。


「私は、エルセリア。あなたの名前は?」

「……名前? そんなもん、ない。……みんな、死神とか、呪われたガキって呼んでた」


 死神。神話で出てくる「死神」の容姿は、黒髪と金色の瞳で描かれることが多い。それが理由だろう。エルセリアは眉を下げ、首を振った。


「いいえ。あなたは死神なんかじゃない。……名前がないと、不便よね。あなたのことを、ギルベルト、と呼んでもいいかしら」

「ギル……ベルト?」

「ええ。輝く誓い、という意味を持たせたの。……ギル、今日からあなたは、私の……大切な家族として、ここで過ごしてください」


 その瞬間だった。少年——ギルベルトの少年の瞳が、見開かれる。


 彼の脳に、強烈な衝撃が走った。初めて自分に向けられた名前。初めて自分を肯定した、温かな手。


(……ギルベルト。俺の、名前。エルセリア。俺の、家族……?)


 彼の内側で、何かがパチンと弾けた。


「ギルベルト。私の言ったこと、分かった?」


 柔らかく微笑む彼女に、ギルベルトはゆっくりと、まるで聖物に触れるような手つきで、彼女の手を掴んだ。


「……あぁ、わかった。……あんたが俺を、ギルベルトにしたんだな」


 その声は、震えていた。けれど、次の瞬間に、彼は彼女の膝に頭を預けてきた。まるで、主人の膝元で丸まる子猫のように。


 今まで静かに見守っていたマルタが、冷ややかに、しかしどこか諦めたようにため息をついた。


「お嬢様。その獣の目を見ると、もう手遅れですよ」

「手遅れって、何が?」

「……いえ。これから、十分な躾が必要だと思っただけです」


 窓の外では、夕暮れの赤い光が差し込んでいる。エルセリアの膝に頭を預けて目を瞑るギルベルト。その小さな手のひらが、彼女の手首を驚くほど強い力で握りしめていた。まるで、二度と離さないと、そう言っているかのように。


「……俺のものだ」


 消え入りそうな小さな呟きは、誰の耳にも届くことなく、影の中に消えていった。

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