第24話 甘い誓い
ギルベルトにとって、生を受けた日など無意味だった。誰にも望まれずに過ごしてきた彼に生まれた日を祝われた記憶などなく、血を流して生き延びることだけが、彼がこの世に繋ぎ止められている唯一の証だったから。
だから、今の彼にとっての誕生日は、数年前。路地裏で泥を啜っていた自分に、一人の少女が震える手を差し出し——「あなたは、もう一人じゃない」と微笑んだ、あの日。それが、彼の「生」が始まった日だった。
「お誕生日おめでとう、ギル」
薬屋の二階。仕事を終えた後、エルセリアが用意してくれたのは、ささやかながら温かい晩餐だった。
テーブルには、エルセリアが指先を針で何度も突きながら仕上げた、歪な刺繍入りのハンカチ。そして、彼女が今日のために特別に調合した、心を穏やかにするハーブの香りが満ちている。
「エルセ……。俺のような影の者に、これほどの慈しみを与えてくださるなんて。……あぁ、このハンカチは使いません。額装して、俺の墓まで持っていきます」
「相変わらず大袈裟ね。使ってこそのハンカチよ」
エルセリアはふんわりと微笑んだ。だが、その頬は心なしか、暖炉の火の照り返し以上に赤く染まっている。
食事が終わり、窓の外には琥珀色の月が昇っていた。二人はテラスに出て、夜風に吹かれる。街の喧騒は遠く、微かに聞こえるのは寄せては返す波の音だけだ。
「……ギル。あなたに出会えて、本当によかった。一人じゃ何もできなかった私を、今の私に変えてくれたのは、間違いなくあなたよ」
エルセリアが少し潤んだ瞳で彼を見上げる。その言葉は、ギルベルトの理性を絹糸のように脆く解いていく。
彼は吸い寄せられるように、彼女の前に跪いた。その手を取り、熱い掌を重ねる。
「エルセ。俺は、あなたの騎士です。あなたの影です。……ですが、今夜だけは、一人の男として、あなたに触れることを許していただけませんか」
ギルベルトの金色の瞳が、夜の闇の中で情熱的に燃えていた。
エルセリアは拒まなかった。それどころか、彼女の手が彼の頬にそっと添えられる。その熱に、ギルベルトは自分の心臓が弾けるのではないかと思った。
ゆっくりと、彼は顔を近づけていく。
触れそうなほど近い距離。エルセリアの吐息が、微かにハーブの香りを纏って彼の唇を掠める。 彼は目を閉じ、生涯で最も尊い瞬間を迎えようとした。
——その、瞬間だった。
「……あっ、れ……ギ、ル……。世界が、まわ……」
「エルセ……?」
ふわり、と彼女の体から力が抜けた。ギルベルトが慌てて抱きとめると、腕の中の彼女は、湯たんぽのように熱くなっていた。
「……はぁ、はぁ……っ、ごめんなさ……少し……」
そのまま、エルセリアは目を閉じた。
「エルセ? エルセリア……!」
ギルベルトの悲鳴に似た声が夜のセレンに響き渡る。彼は即座に彼女を横抱きにし、寝室へと駆け込んだ。
◇ ◇ ◇
「全く、呆れたものですね」
数分後。すっ飛んできたマルタが、エルセリアの額に濡れタオルを置きながら冷ややかに告げた。傍らでは、ギルベルトが「俺のせいだ! 俺の不純な欲望がエルセリアの聖なる体に毒を回したんだ!」と、床に頭を叩きつけて絶望している。
「いいですか、お嬢様はこの数日間、あなたの誕生日のために睡眠時間をも削って刺繍をし、さらに街の人々の往診も休まずこなしていたのです。極度の過労と寝不足、そこにあなたが変なことをしようとしたことによる緊張が重なれば、知恵熱を出して倒れるのは必然です」
「……あぁ、あぁぁ! 俺のために、そんな……! エルセリア、死なないでください。俺の心臓をあげますから!」
「うるさいです、黙りなさい狂犬。命に別状はありません。三日も寝ていれば治ります」
マルタに部屋から叩き出されたギルベルトは、その後、寝室の扉の前で一晩中、彫像のように座り込み続けた。
あと一センチ。あと一センチで、エルセリアとキスができた。
そのあまりに惜しい距離が、今の彼には、空の果てよりも遠く感じられた。




