第22話 琥珀色の祝祭
ミレーヌとの因縁に終止符を打ち、エルセリアの心はかつてないほど澄み渡っていた。そんな清々しい気持ちを祝うかのように、港町セレンは今、一年で最も活気溢れる『琥珀祭』の準備に沸き立っている。
琥珀祭。それは、かつてこの街を襲った大嵐を鎮めた「海の聖女」を称え、海神に琥珀色のワインと炎を捧げる伝統行事だ。街中の広場には色とりどりの旗がはためき、海風に乗ってスパイスの効いた屋台料理の香りが漂ってくる。
「エルセ、この薬草の袋はどこへ運びますか?」
店の中で、ギルベルトが山のような麻袋を軽々と担ぎ上げて尋ねる。今日の彼は、いつもの漆黒の装いではなく、お祭りらしく少しだけ刺繍の入った深い紺色のジャケットを羽織っていた。
「それは広場の救護テントへお願い。今日はお祭りで怪我をしたり、飲みすぎたりする人が増えるかもしれないからね」
「承知しました。エルセはここで待っていてください。俺がすべて終わらせてきます。……いいですか、俺がいない間に俺以外の男と談笑してはいけませんよ。俺の心が荒んで、祭りの炎が火事に見えるようになりますから」
「ギル、不吉なことを言わないで。さあ、行ってらっしゃい」
エルセリアは彼の背中を軽く押して送り出した。彼は「エルセが俺に触れてくれた……! これで百人力です!」と、端正な顔を台無しにするほどのニヤケ顔で駆けていった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、エルセリアはマルタと一緒に広場へ向かった。広場の中央には、夜に点火される巨大な薪の山が組まれており、その周囲を人々が歌いながら踊っている。
「先生! 先生も踊ろうよ!」「エルセ先生、こっちの干肉食べてみてくれ、絶品だぜ!」
街の人々に次々と声をかけられる。かつて、王都の社交界で無能な公爵令嬢と蔑まれ、腫れ物に触れるように扱われていた彼女が、今ではこの街の風景の一部として溶け込んでいる。
「……お嬢様、お顔が緩んでいますよ」
隣で薬湯の鍋を監視していたマルタが、呆れたように、けれど優しく言った。
「そうかしら? でも、本当に幸せなんですもの。誰かの役に立てて、こうしてみんなと笑い合えることが」
「お嬢様が幸せなら、私の過労も報われるというものです。……おや、バルドスさんが来ましたね。娘さんを連れて」
人混みを割って、リナを肩車したバルドスさんが現れた。彼は豪快に笑いながら、エルセリアに大きな木箱を差し出す。
「よお、エルセさん! 祭りの差し入れだ。とびきりの琥珀ワインだぜ。……おっと、そこの狂犬が睨んでるな」
見れば、救護テントの設営を終えたギルベルトが音もなくエルセリアの背後に立ち、バルドスさんを獲物を見るような目で見つめていた。
「……バルドス。ワインをエルセに飲ませるつもりか。エルセには、俺が精製した聖水を差し上げる予定だ」
「誰が水なんて飲むかよ、この変態騎士め。……まあいい、エルセさん。今夜の点火式、楽しみにしてな。あんたはこの街の守り神なんだ。皆、あんたの幸せを願ってるぜ」
バルドスの言葉に、周囲の人々が「そうだそうだ!」と囃し立てる。エルセリアは照れくさくて、思わず顔を伏せた。
やがて、空が深い藍色に染まり、琥珀色の月が海の上に昇った。お祭りのクライマックス、大焚き火への点火式だ。
太鼓のリズムが激しくなり、街の人々が一斉に松明を掲げる。彼女が過ごしてきた別邸を燃やしたのも、これと同じ火。それでも、恐怖は全く感じなかった。隣には、彼女の手を力強く、そして優しく握ってくれるギルベルトがいるから。
「……エルセ。炎を見て、嫌なことを思い出していませんか?」
ギルベルトが不安そうに覗き込んでくる。彼女は首を振り、彼の手に自分の手を重ねた。
「いいえ。この炎は、私たちの新しい始まりの灯り。……そう思えるのは、ギル、あなたがいてくれたからよ」
「エルセ……」
ギルベルトの金色の瞳が、焚き火の光を反射して琥珀色に輝く。
「——火を点けろ!!」
バルドスの号令と共に、巨大な薪の山に火が放たれた。ごう、と炎が夜空を焦がし、琥珀色の火の粉が雪のように舞い上がる。街の人々の歓声が、波の音と混ざり合って響き渡った。
お祭りはこれからが本番だ。踊り、歌い、飲み、笑い合う。エルセリアはその喧騒の中で、ギルベルトに寄り添いながら、静かに目を閉じた。
(……お父様、ヴィンセント殿下。そして、ミレーヌ。私は、この場所で世界で一番幸せになるわ)
潮風が彼女の頬を撫でていく。大切な人たちの温もり。それだけで、エルセリアの心は満たされていた。
「エルセ。……来年の祭りは、今よりもっと、俺がエルセを幸せにしてみせます」
「ええ。楽しみにしているわ、ギル」
琥珀色の夜は、どこまでも優しく、彼女たちの未来を照らしていた。
——しかし、この時のエルセリアはまだ知らない。この数分後、酔っ払った勢いでバルドスがエルセリアとギルベルトをダンスの輪に放り込むという暴挙に出て、ギルベルトが赤面して卒倒しかけるという、さらなる騒動が待っていることを。




