第20話 泥の中から見上げる光
爪が割れ、指先はあかぎれで血が滲んでいる。かつて、宝石を散りばめた扇を優雅に操っていた私の手は、今や冷たい井戸水で他人の汚れた下着を洗うための道具に成り下がっていた。
「おい、ミレーヌ! いつまで手を休めているんだ。さっさとその山を片付けろ!」
背後から飛んできたのは、平民の老婆による罵声と、硬い箒の柄だった。背中に走る痛みに、私は声もなくうずくまる。
「……申し訳、ございません……」
カサカサに枯れた声で謝罪する。
ミレーヌ・ロシュフェルト。それが私の名前だった。公爵家の愛娘として、父に甘え、姉からすべてを奪い、ヴィンセント殿下の隣で輝くはずだった、この国の真の聖女。それがどうして、王都の片隅にある下級修道院の洗濯女として、泥にまみれているのか。
(全部、お姉様のせいよ……!)
心の中で、何度繰り返したかわからない呪詛を吐く。あの火事で死んだはずのエルセリア。あの日から、私の運命は狂い始めた。結界が弱まり、父は発狂し、ヴィンセント殿下は廃嫡。ロシュフェルト公爵家は国を危機に陥れた責任を問われ、資産はすべて没収。私は平民へと落とされ、この「矯正施設」という名の地獄へ放り込まれた。
「お姉様さえいなければ。あの方が勝手に死んだりせず、今まで通り私に魔力を捧げて、私に踏みつけられていれば、私は今でも……!」
洗濯桶の中に映る自分の顔を見る。頬はこけ、髪はバサバサ。かつての美貌はどこにもない。
だが、絶望の淵で、私はあるものを手に入れていた。
それは、父が没収される直前に私に託した、ロシュフェルト公爵家に伝わる禁忌の魔道具——『魂の天秤』。
懐に隠したその小さな銀の天秤は、持ち主が自分より優れた魂を見つけたとき、その運命と立場をそっくりそのまま入れ替えることができるという、呪いの道具だ。
「……港町に、生きているのでしょう? お姉様」
ヴィンセント殿下が狂ったように叫んでいた情報を、私は忘れていない。
港町セレン。そこに、すべての人に愛され、幸せを振り撒く『薬師エルセ』がいるという。
「ふふ……ふふふ……あはははは!」
私は狂ったように笑い出した。老婆が気味悪そうに私を蹴り飛ばしたが、痛みなど感じなかった。
(入れ替えてあげるわ。お姉様の今のその幸せ、全部私がもらう。お姉様には、この冷たい水と泥の中で、一生這いつくばってもらうのよ……!)
その夜。私は修道院の壁を越えた。足の裏が石で切れ、血が流れても止まらなかった。
天秤が微かに熱を帯び、私を導いている。港町の方角へ。あのお人好しで、愚かで、何一つ自分の意志で選べなかった道具の姉の元へ。
道中、空腹に耐えかねて野草を食み、馬車の下にしがみついて移動した。かつての私なら死んでもやらなかったような浅ましい行為も、今は復讐への執念が私を突き動かしている。
「待っていて、お姉様。……あなたのその日常を、私が根こそぎ奪い取ってあげる」
セレンの街に辿り着いたとき、私はボロ布を纏った物乞いのような姿だった。けれど、街の入り口で聞こえてきた噂話が、私の胸を激しい嫉妬で焼き尽くす。
「聞いたか? エルセ先生、今日もお祭りのためにたくさんの薬湯を用意してくれたんだってよ」
「ああ。先生は俺たちの街の宝物だ。あんなに綺麗で優しい人は、他にいないぜ」
宝物。綺麗。優しい。その言葉の一つ一つが、私の耳を刺す。
「……あは。お姉様、やっぱり何も変わっていないのね。どこへ行っても、そうやって周囲に尽くして、馬鹿みたいに笑って……」
私は、天秤の鎖を強く握りしめた。
この天秤を発動させるには、相手の「最も大切な瞬間」に立ち会い、その心に一筋の疑念か恐怖を植え付ける必要がある。
私は影に潜み、お姉様の薬屋を見張った。窓越しに見える彼女は、本当に幸せそうだった。
そして、その隣には——見覚えのある、けれど信じられないほどに美しく成長した男の姿があった。
かつてお姉様が拾ってきた、あのドブネズミ。彼が、まるでお姉様を守る神聖な騎士のような顔をして、彼女の髪を慈しむように撫でている。
その瞳に宿る、異常なほどの熱量。
「……あはは。そう。あれが、今のあなたの一番なのね、お姉様」
私は闇の中で口角を吊り上げた。奪い甲斐がある。あの男の愛も、街の人々の尊敬も、お姉様のその穏やかな笑顔も。
すべてを反転させてやる。
私が洗濯女として泥を啜っていた時間に、お姉様が享受していた光のすべて。それを今夜、私が買い取ってあげる。
「お姉様……会いに来たわよ」
狂気の天秤が、暗闇の中でチリンと不吉な音を立てた。




