第17話 審判の時
迎賓館での数夜は、ヴィンセントにとって人生で最も凄惨な体験となった。食べれば腹を下し、飲めば幻覚を見、眠れば死神の囁きに飛び起きる。かつての傲慢な王子は、今や見る影もなくやつれ、血走った眼で虚空を睨む狂人と化していた。
「……あいつだ。エルセリアが、私を陥れようとしているのだ……!」
ついに耐えきれなくなったヴィンセントは、護衛の静止を振り切り、抜き身の剣を手に『薬屋エルセ』へと突き進んだ。彼の背後には、数名の騎士たちが戸惑いながらも付き従っている。
街の人々は、異様な風体の男たちが薬屋へ向かうのを見て、即座に異変を察知した。だが、彼らは逃げない。それどころか、漁師は銛を手に、商人は棍棒を手に、王子の行く手を阻むように立ち塞がる。
「どけ! 私はこの国の第二王子だぞ!」
「おう、王子様か。悪いがこの先は俺たちの先生の店だ。取り込み中なんでな、お引き取り願いな」
バルドスの息がかかった男たちの無言の圧力。ヴィンセントは屈辱に顔を赤く染めながら、制止を振り切って強引に店の扉を蹴り開けた。
カラン、と乾いた鈴の音が響く。そこには、穏やかな空間があった。
カウンターの奥で薬を調合していた一人の女性が、静かに顔を上げる。
「……こんばんは。ここは病を癒やす場所。剣を持った方が入る場所ではありませんわ」
その声を聞いた瞬間、ヴィンセントの剣が床に落ちた。カラン、と虚しい音が響く。
「……エルセ、リア……」
数年ぶりに見るその姿は、かつて彼らの後ろで控えていた公爵令嬢ではない。その佇まいは以前よりもずっと気高く、アメジストの瞳には怯えなど微塵もなかった。
「お久しぶりです、ヴィンセント殿下」
「生き……ていたのか。やはり……! さあ、戻るぞエルセリア! 私が許してやる。お前を再び私の婚約者にしてやろう。お前さえいれば、国も、私も……!」
ヴィンセントが縋るように手を伸ばそうとした、その時。
彼の指先がエルセリアに触れるより早く、背後の影から「死」が具現化した。
「——その汚い手を、これ以上俺のエルセに近づけないでいただけますか」
低く、地を這うような声と共に、ギルベルトが姿を現す。彼の短剣の先は、ヴィンセントの喉元から数ミリの場所でピタリと止まっている。その瞳にあるのは、底冷えするような殺意だ。
「な、なんなんだ、お前は……!」
「俺は、エルセの一の騎士です。……それと、クソやろう。エルセはあなたの許しなど求めてはいません」
さらに、店の奥からマルタが、彼女が愛用するナイフを手に現れた。
「おや、不潔な方が入店されたと思ったら、ヴィンセント殿下でしたか。お嬢様の平和を乱す不法侵入罪として、今すぐこの街の海に沈めて差し上げましょうか?」
マルタの背後からは、バルドスが腕を組みながら現れた。王国の王子に対して、この街の番犬たちは一人として敬意を払わない。
「殿下……。私は、あの燃え盛る別邸の中で、エルセリア・ロシュフェルトとしての自分を捨てました」
エルセリアは静かにヴィンセントを見つめた。
「今の私は、この街の薬師エルセです。この街の人々を愛しています。……あなたと一緒にいた頃の私は、意思を持たないただの道具でした。けれど、今は違います。私を必要としてくれる、本当の家族がいるのです」
「嘘だ! 貴様らはこいつらに騙されているだけだ! エルセリア、私にはお前が必要なんだ。戻れ、これは命令だ!」
ヴィンセントが叫んだ瞬間、店の外からどよめきが起きた。いつの間にか店を取り囲んでいた街の人々が、口々に怒りの声を上げ始めたのだ。
「先生をいじめる奴は許さねえぞ!」 「王子様だか何だか知らねえが、さっさと帰れ!」
民衆の怒り。自分を敬うはずの民が、一人の女のために自分を拒絶している。その事実に、ヴィンセントのプライドは音を立てて崩壊した。
「皆さま。……もう、十分です」
エルセリアは一歩前へ出ると、優雅に淑女の礼をした。かつて彼女が極めた、貴族の令嬢としての完璧な一礼。
「お引き取りください、ヴィンセント殿下。……失ったものは、二度と戻りません。あなたが求めている私は、もうどこにもいないのですから」
「あ……あぁ……っ!」
ヴィンセントは、力なくその場に膝をついた。完璧な拒絶。彼女は今、自分などいなくとも、幸せそうに笑っている。
「……連れて行け」
バルドスの合図で、部下たちがヴィンセントの両脇を抱えた。引きずられていく王子の背中は、かつての威光など微塵もない。ただの惨めな男のそれだった。
◇ ◇ ◇
騒動が終わり、店に静寂が戻る。
「……エルセ。お怪我はありませんか?」
ギルベルトが、心配そうにエルセリアの顔を覗き込む。彼女は小さく笑って、彼の頬に触れた。
「大丈夫よ、ギル。……ありがとう、私を守ってくれて」
ギルベルトは彼女の手に自分の手を重ね、愛おしそうに目を細めた。その瞳には、過去の呪縛も、ヴィンセントへの殺意もない。ただ、目の前の主人に対する、狂おしいほどの情愛だけが満ちていた。
「……当然です。俺は、あなたの騎士ですから」
マルタが溜息をつきながら、店の埃を掃き始める。
「お嬢様、もう少し頑丈な扉に替えましょう。それから、狂犬の鎖も少し強くしておきますね」
「……エルセ、今夜は美味しいスープを作ってください。口直しがしたい」
「ええ。みんなの大好きな、とびきりのスープを作るわね」
窓の外、港町の海には美しい星空が広がっていた。
過去は清算され、本当の自由がここにある。エルセリアは、自分の手を取るギルベルトの温もりを感じながら、新しく始まる明日を思った。
——そして数日後。王都では、港町で乱行を働いたヴィンセント王子の廃嫡と、ロシュフェルト公爵家の没落が正式に決定されることになるのだが。それは、幸せな晩餐を囲む今の彼女たちにはもう関係のない、遠い話だった。




