第16話 影の「おもてなし」
港町セレンの入り口に、不釣り合いなほど華美な紋章を掲げた馬車が到着した。降り立ったのは、旅の疲れと苛立ちで顔を歪めた第二王子、ヴィンセント・フォン・アスムートである。かつての輝かしい金髪は手入れ不足でパサつき、その瞳には執念という名の暗い火が灯っていた。
「……ここか。この忌々しい海臭い街に、エルセリアがいるというのだな」
ヴィンセントが周囲を見渡すが、期待していた王族への熱烈な歓迎はどこにもなかった。それどころか、道ゆく漁師や商人たちは、王家の紋章を見ても「なんだ、邪魔な馬車だな」と言わんばかりの冷ややかな視線を向けて通り過ぎる。
この街の主は王家ではない。バルドスという名の「王」なのだということを、ヴィンセントはまだ知らない。
「殿下、まずは迎賓館へ。あちらの薬師の女については、我が騎士団が包囲網を敷いております」
側近の言葉に、ヴィンセントは鼻を鳴らした。だが、彼が迎賓館の一歩手前まで足を踏み入れた瞬間から、マルタとギルベルト、そしてバルドスによる「歓迎ツアー」は幕を開けた。
◇ ◇ ◇
まず、ヴィンセントを襲ったのは「不運」の連続だった。
迎賓館へと続く石畳。なぜかそこだけ異常に滑りやすくなっており(バルドスの部下による特製オイル散布)、ヴィンセントは華麗に足を取られ、泥水の溜まった溝へと突っ込んだ。
「ぎゃっ!? な、なんだこれは! 貴様ら、清掃はどうなっている!」
泥まみれになったヴィンセントが叫ぶ。かつてエルセリアに泥を投げつけた彼が、今、自ら泥の中に這いつくばっている姿は、実に皮肉な光景だった。その様子を、近くの屋根の上からギルベルトが冷たく見下ろしている。
「……まだ足りない。あいつの服が泥の色になるまで、何度でも転ばせてやる」
◇ ◇ ◇
命からがら迎賓館に辿り着いたヴィンセントを待っていたのは、マルタによる「毒のない猛毒」の接待だった。
用意された最高級のはずのワイン。だが、それを一口飲んだヴィンセントは、あまりの不味さに噴き出した。
「……っ!? なんだこの、雑巾を絞ったような味は!」
「失礼いたしました、殿下。この街の最高級品でございますが……王都の繊細な味覚には合わなかったようです。代わりに、こちらの特別なお茶はいかがでしょうか?」
給仕に化けたマルタが、恭しくカップを差し出す。その茶には、バルドス秘蔵の「三日間は腹痛が止まらないが死ぬことはない」という絶妙な配合のハーブが練り込まれていた。
さらに、ヴィンセントが寝所に引き上げると、そこには本当の地獄が待っていた。
消したはずの蝋燭が、不意に灯る。閉めたはずの窓が、音もなく開く。そして、風もないのにカーテンが白く踊り、鏡の中には——。
「……ヴィンセント殿下。あなたは、最低です」
枕元から聞こえた、低く、死神のように冷たい囁き。ヴィンセントは悲鳴を上げて飛び起きた。
「だ、誰だ! そこにいるのは誰だ! 刺客か!?」
騎士たちが踏み込んでくるが、そこには誰もいない。ただ、枕元に一輪の、枯れ果てた月光草が置かれているだけだった。それは、かつて彼がエルセリアの庭で踏みにじった花と同じ種類のものだ。
「……エルセリア。エルセリアなのか!? 私を恨んでいるのか!」
ヴィンセントは震える手でシーツを掴んだ。精神を削る音のない攻撃。ギルベルトは闇の中から、恐怖に震える王子の姿を観察していた。
殺すのは簡単だ。だが、それでは足りない。エルセリアが味わった絶望、孤独、そして自分の存在が否定される恐怖を、この男には骨の髄まで叩き込まなければならない。
◇ ◇ ◇
一方、そんな騒動を露ほども知らないエルセリアは、バルドス邸の庭で、明日街の人々に配るための薬湯を煮込んでいた。
「エルセ様、いい匂い! 今日はお星様みたいな匂いがする!」
リナが無邪気に鍋を覗き込む。エルセリアは優しく微笑みながら、木べらでゆっくりと薬をかき混ぜた。
「そうね、リナちゃん。今日は心を落ち着かせるハーブを多めに入れたの。……なんだか最近、街の空気がざわついている気がするから」
エルセリアは、ふと遠くの迎賓館の方角を見つめた。彼女の胸には、かつて自分を捨てた過去が醜い姿で這い蹲っている けれど、今の彼女の隣には、自分を信じてくれる家族がいる。
(……もし、あの方と対面することがあっても。私はもう、逃げたりはしないわ)
エルセリアの瞳には、かつての弱い彼女にはなかった、自分自身の居場所を守ろうとする強い意志が宿っていた。
「さあ、リナちゃん。おやつにしましょう。ギルたちが帰ってきたら、びっくりするくらい美味しいパイを焼きましょうね」
「わーい! パイだパイだ!」
リナが楽しそうに歌い出すのを見て、エルセリアは温かな笑みを浮かべた。




