第11話 束の間の休息
港町セレンの生活は穏やかだった。けれど、その穏やかさの中に、エルセリアは最近、肌を刺すような重みを感じ始めていた。
「……ギル。少し、近くありませんか?」
薬棚の整理をしていた彼女は、背後に張り付くように立つギルベルトに苦笑した。彼は彼女の肩に顎を乗せる勢いで、彼女の手元をじっと見つめている。
「近いなんてことありません。エルセの影に俺は潜んでいるのですから、これでも離れている方です」
「影に潜むのと、私の腰を抱くのは別の話と思うのだけれど」
ギルベルトの手は、無意識なのか意識的なのか、エルセリアの腰をしっかりとホールドしていた。家出から数年、彼の愛は深まるどころか、もはや忠誠を超えて監禁の一歩手前まで煮詰まっている気がする。さらに、最近の彼は彼女が街の男の人と一言会話するだけで、その日の夜にその男の家の周辺で殺気を放っているらしい(マルタ談)。
(このままでは、彼を『普通の男の子』にするどころか、別の意味で取り返しのつかないことになってしまう……)
エルセリアは決意した。少し、彼との間に「適切な距離」というものを設けるべきだと。
「ギル。私、今日から数日、バルドスさんの屋敷へ行ってくるわ。リナちゃんの術後の経過を、泊まり込みで診てあげたいの」
その瞬間、部屋の温度が氷点下まで下がった気がした。ギルベルトの金色の瞳が、獲物を屠る瞬間の鋭さに変貌する。
「……泊まり込み? なぜですか。別の男の家になど、エルセを一人で行かせられるわけがない。……今すぐバルドスを消してきます。そうすれば、あなたが家を空ける必要もなくなります」
「極論はやめなさい! ギル、あなたはお留守番です」
エルセリアがきっぱりと言うと、ギルベルトは絶望に打ちひしがれたような顔でその場に膝をついた。死神の面影はどこへやら、捨てられた仔犬のような、見るに堪えないほどの悲壮感。だが、ここで折れてはいけない。
「お嬢様の仰る通りです。最近のあなたは少し、お嬢様の空気を吸いすぎて頭が夢心地になっていますよ、狂犬」
救世主のように現れたマルタが、ギルベルトの襟首を掴んで引き剥がした。彼女はエルセリアに目配せをする。
「お嬢様、準備はできています。この狂犬のことは私が責任を持って引き止めておきますので、さあ、早く」
「ありがとう、マルタ。……ギル、良い子で待っていてね」
「エルセ! エルセリアぁ!!」
背後で悲痛な叫びを上げるギルベルトをマルタに任せ、彼女は迎えに来ていたバルドスの馬車に飛び乗った。
◇ ◇ ◇
裏社会を牛耳る男バルドスの屋敷は、外観こそ威圧的だが、中は驚くほど温かみに溢れていた。
「エルセ様! 本当に来てくれたのね!」
馬車を降りるなり、元気いっぱいの少女リナが彼女に抱きついた。かつての青白い顔はもう、今では太陽のような笑顔を見せている。
「ええ、リナちゃん。約束通り、しばらく一緒に過ごしましょうね」
「ようこそ、俺の城へ。エルセさんが来てくれるなんて、街のもんに自慢できるぞ」
バルドスが豪快に笑いながら迎えてくれた。彼はエルセリアを恩人と崇め、屋敷の最高級の客間を用意してくれていた。
その夜。リナちゃんを寝かしつけた後、彼女はバルドスとテラスで茶を飲んでいた。
「……あの黒髪の若造、置いてきたのかい?」
「ええ。少し……彼には自分の時間を持ってほしくて。私に依存しすぎている気がするのです」
彼女が溜息混じりに言うと、バルドスは少し真面目な顔をして、夜の海を見つめた。
「エルセさん。あんたは優しすぎる。あいつの瞳……ありゃ、救われた人間の目じゃねえ。……自分を救った神様を、檻に入れてでも独り占めしようとする奴の目だ」
バルドスの言葉が、胸に刺さった。
「あんたが薬草を摘んでいる間も、あいつはあんたの足跡をずっと追っているような、そんな執念を感じるぜ。……気をつけな。執着ってのは、時として愛よりも鋭い刃になる」
エルセリアは、前世で彼女を殺したギルベルトを思い出した。あの時の彼は、仕事として彼女を殺した。憎しみも悲しみもなかった。
けれど今世、彼は今や彼女のために世界を滅ぼしかねない。それは、果たして彼にとって幸せなことなのだろうか。
その時。屋敷の庭の、深い影が微かに揺れたのを彼女は見逃さなかった。バルドスも気づいたのか、腰の剣に手をかける。
影の中から、月光を浴びて現れたのは——。
「……エルセ。……三時間です」
そこには、マルタの監視を振り切ったのか、あるいは彼女を出し抜いたのか。全身を夜露に濡らしたギルベルトが立っていた。彼の瞳は、暗闇の中で爛々と金色の光を放っている。
「あなたが俺の視界から消えて、三時間が経ちました。……もう、限界です。死んでしまいます」
彼はバルドスを無視し、吸い寄せられるようにエルセリアの足元へ跪いた。震える手で彼女の指に触れ、縋るように見上げてくる。
「ギル、どうしてここに……! マルタはどうしたの?」
「巻きました。……エルセ、お願いです。俺を置いて行かないで。犬小屋でもいい、庭の木の上でもいい。……あなたの呼吸が聞こえない場所は、俺にとって墓場と同じなんです」
その瞳に宿っているのは、狂気か、それとも純粋すぎる愛か。バルドスが呆れたように鼻を鳴らした。
「……お嬢さん、こりゃもうダメだ。鎖を付けても手遅れなようだな。……入れよ、兄ちゃん。客間の廊下なら貸してやる」
「感謝する」
ギルベルトはエルセリアを見つめ、初めて安堵したように、けれどひどく歪んだ微笑を浮かべた。
「エルセ。俺から離れようなんて、もう二度と思わないでくださいね。……あなたは俺を拾った。なら、死ぬまで俺を飼う覚悟をしてください」
夜風が、彼の冷たい言葉を運んでくる。エルセリアは、彼という重すぎる存在を改めて実感し、同時に、そんな彼を切り捨てられない自分にも気づいてしまった。




