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【完結保証】追放された“改造師”、人間社会を再定義する ―《再定義者(リデファイア)》の軌跡―  作者: かくろう
第4章

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第99話「潮風の朝 ― 歩きたいと言えた日 ―」

 夜がほどけて、港の色が変わっていく。


 リュミエルの朝は静かな立ち上がりだった。黒い水平線に薄い橙が差して、波の縁だけが銀に光る。昨夜は濡れた石畳も、今はもう乾いている。港に並んだ小舟の帆が、潮風に小さく鳴っていた。


 潮の匂いは強い。けれどそれは、砂漠の乾いた風をずっと吸ってきた身体には心地よかった。焼けた皮膚と、疲れた心をゆっくり洗ってくれる感じがした。


 宿の前で、ユウリは腕を組んで空を見ていた。


 もう十分に戦っているはずなのに、表情はあまり緩まない。癖みたいなものだ。見張りの顔を、すぐにはやめない。


 その横に、淡い光が揺れた。


《報告。現在の潮流は南東方向。風速は安定域内。港周辺の騒乱要素、検出ゼロ……たぶん》


 βのホログラムが胸の高さで浮遊している。薄い青白い輪郭。声は落ち着いて、けれど少しだけ柔らかくなってきた。


「“たぶん”って便利だな」


《便利です。……たぶん》


「お前、器用になったな」


《学習中です。いまの“たぶん”には、安心の意味が含まれています》


「安心、ね」


《はい。港は安全。仲間の心拍も落ち着いている。だから“安心”を含めて“たぶん”です》


 ユウリは、目だけで笑った。


「だいぶ“仲間らしい”言い回しになってきたな、β」


《仲間。はい。そのタグで自己定義を更新しています。……たぶん》


 宿の看板の陰で、朝の風に光がちらちら溶けた。βはもう、ただ情報を吐き出す装置じゃない。ユウリに「今は安全」と告げることそのものに、意味を見いだしている。


 その変化にユウリも気づいている。


 けれど、わざわざは褒めない。わざわざ褒めたらβはきっとフリーズする。だから、いつもみたいに淡々と受け取る。それが“普通”として扱うことになるから。


 扉がきい、と開いた。


 ティアがそこに立っていた。


 まだ寝癖が少し残っている。小柄な体の動きは落ち着かない。肩にかけた簡易鎧のベルトを何度も直そうとして、直せていない。顔は、頬だけ真っ赤だ。


「…………」


 口を開こうとしては閉じ、開こうとしては飲み込み、それでも諦めずに一歩ずつ前に進んでくる。


 その背後から、ミナがこそっと顔を出す。リアナも少し離れたところにいて、静かに見守っていた。βはそちらの方に小さくふわりと移動する。


《観測:ティアの心拍、上昇。ミナの心拍、同期上昇。緊張、共有状態》


 ユウリはティアの方へ視線を向ける。


「ティア」


 呼ばれただけで、ティアの肩が小さく跳ねた。


「し、主様……っ」


 言いかけて、のどにつかえる。うまく言葉が出てこない。昨夜のうちに何度も練習したはずのひとことが、出てこない。


 港の朝の音が遠くなる。


 帆のきしむ音、波のこすれる音、船員同士のぶっきらぼうな挨拶。全部、少し遠くなる。


 息を吸って、吐いて。


 ティアは拳をぎゅっと握った。


「ボク……っ、主様と……」


 喉に力が入りすぎて、声が震れる。


「ボク、主様と、一緒に歩きたいっ!」


 言った瞬間、顔が真っ赤になった。すぐに視線を落とす。耳も、襟足も、鎧の下の首筋も、ぜんぶ熱い。


 宿の前の空気が、ほんの一瞬だけ止まる。


 ユウリは何も言わず、ただ数秒見ていた。無表情に見えるけれど、その沈黙ごと受け止めている。


 やがて、ほんのわずかに口元が動いた。


「もう歩いてるだろ」


 ティアはきょとんと目を上げた。


「え……」


「砂漠も、街道も、赤鎖の根も。お前はずっと、俺の隣にいた。倒れるときは前で。笑うときは隣で」


 ティアは一瞬だけ息を止めた。


 そのあと、かすかに、目尻が潤む。


 わかりやすい言い方ではなかった。でも、わかった。ちゃんと聞こえた。「それでいい」って言われたことが、ちゃんと伝わった。


 けれど、ユウリはさらに言葉を足した。


「ただ、今日は“ちゃんと隣”にな」


「……うん」


 ティアはこくんとうなずいた。今度は逃げなかった。視線は真っ直ぐで、頬は真っ赤で、でも胸は張っていた。


 彼女の中にあったもやが、ひとつ外に置かれた。


 ミナが、じたっと足踏みした。


「……ずるい」


 リアナがミナの肩を軽く押さえる。


「落ち着きましょう。朝から騒がしいと、宿の人が困ります」


「落ち着いてるもん。すごく落ち着いてるもん。落ち着いて、むっ、ってなってるだけだもん」


《観測ログ追記。ミナの感情タグ、“嫉妬”》


 βがいつも通りの調子で、だがどこか得意げに報告した。


「ちょっと待って今なんて言った!?」


《嫉妬、です。たぶん》


「“たぶん”やめなさいよぉぉ!」


「β、からかいはほどほどにしてあげてくださいね」


《すみません。……たぶん》


 リアナがため息をこぼす。ティアはそのやり取りを聞きながら、肩の力を抜いた。さっきまでの緊張がやっとほぐれていく。


 ユウリが一歩、港の方へ歩き出す。


「荷は置いたままでいい。今日は休む」


「休む……?」


「戦闘なし。救出なし。騒ぎなし。あとは魚とパンだ」


 ティアの目が一気に輝いた。


「魚!」


 ミナも尻尾をぶんぶん振った。


「パン!」


 リアナは小さく笑った。


「休む、と宣言してくださるだけでずいぶん助かります」


「お前らも今日は力抜け。ここは血の匂いがしない。……珍しい」


 その一言で、全員の顔からわずかな緊張が消えた。ほとんど無意識のうちにかかっていた“戦場の癖”が、ふっと外れる。


 こうして息を抜ける時間そのものが、もうほとんど贅沢に近い。誰もそれを口にはしなかったけど、全員わかっていた。


 港の通りを歩きはじめると、潮風が正面から吹きつける。


 船の人間たちが網を干している。朝市の女たちが塩と香草で魚を並べている。焼き立ての平たいパンの香りと、スープ鍋の湯気の匂いが混ざる。街全体が目を覚ましはじめている匂いだった。


 ティアは、ユウリのすぐ横を歩いた。


 ほんの肩半分ぶん、距離を詰めて。


 その距離は、彼女にとっては特別な距離だった。戦闘の時は前に出るし、護衛の時は半歩後ろに回る。横に並ぶのは、実は少ない。だから今は、とても大きい。


 ティアは、胸の奥でそっとつぶやいた。


 主様の歩幅に合わせられる。これだけで、こんなにあったかいんだ。


 少し後ろを、ミナとリアナが並んで歩く。


 ミナはぶつぶつ言っている。


「ぜんぜん嫉妬じゃないし。ただその、ミナも主様の隣で魚の匂い嗅ぎたいだけだし。ただそれだけだし。べつに他意はないし」


「はいはい」


「リアナさん、今テキトーに流したでしょ」


「してませんよ」


 そのさらに後ろを、βのホログラムがふわふわとついてくる。灯りの粒のように。道端の人々は、一瞬だけそれを見てから、あえて見ないふりをする。港町は情報が早い。変わったものには驚くが、あまり詮索しない。稼ぎにならないからだ。


《追加報告。市場南側の路地から、微弱な構文ゆらぎを検出。波形は通常の魔力流ではなく、外部因子の干渉と思われます。強度は低。現状、無視推奨》


 βの声が少しだけ硬くなる。


 ユウリは足を止めずに耳だけ傾けた。


「どのくらい“低い”?」


《直接衝突すれば即座に制圧できる程度。周囲被害は限定的。ティアの単独行動でも収束可能……たぶん》


 ティアの肩がわずかに上がった。


 ユウリはすぐに言葉を落とした。


「今日はやらない」


《……了解。撤回します。優先度、待機に変更》


 βの光が一瞬だけ揺れ、ふっと落ち着く。


《ただ、補足。構文ゆらぎの波形の一部が、既知ログとの一致率14%》


「どのログだ」


《“ゾルド”と記録されている戦闘データに近似。完全一致ではありません。たぶん、同一個体ではない》


 ティアはユウリを見上げた。


 ユウリの目は、さっきまでより少しだけ鋭かった。でも、すぐに戻った。焦りはない。即時戦闘を選ばないということは、今は本当に「休み」を優先したってことだ。


 ティアの胸の奥が、じん、と熱くなる。


 ちゃんと守ろうとしているのが分かる。自分も、ミナも、リアナも、βも。今朝は誰も壊したくない、って顔だ。


 βが静かに続ける。


《観測ログ更新。新しい危険因子は存在する。けれど今は、攻める必要はなし。……これは、わたしの提案です》


「そうか」


《はい。……たぶん》


「いい提案だ。採用する」


 βの光が、ほんの少しだけ明るくなった。


 港の朝日が傾き始め、白い壁の家並みに反射して眩しい。遠くでカモメがはしゃいでいる。パンを売る店の前で、子どもが列を作っている。誰かが笑っていて、誰かが文句を言っていて、誰も血を流していない。


 ティアは思った。


 こういう景色を見るために、ボクたちは戦ってきたんだ。


 そう思った瞬間、胸の真ん中にあったざらざらした棘が、すっと溶けた。


 昨日の夜、リアナに打ち明けたこと。恥ずかしくて、でもどうしても言いたかったこと。それをちゃんと主様に届けられた。ちゃんと受け取ってもらえた。


 それだけで、世界の見え方が変わる。


 風の匂いがやわらかい。空が広い。石畳がちゃんと地面だって感じる。ここは檻じゃないし、棺でもないし、命令されてひざまずく場所でもない。


 ティアは小さくうなずいた。


 主様の隣、あったかい。

 ボクはもう、迷子じゃない。


 でも、それだけじゃ足りないことも分かってる。


 主様がもし倒れそうになったら、支えるのはボクがいい。どこの誰でもなく、ボクがいい。セリスでもいいけど、でもボクがいい。そういう気持ちがちゃんと胸にある。


 ティアはそれを、はっきり自分のものとして抱えることにした。


 それは重くない。むしろ、背骨が一本通ったみたいに、身体が軽く感じた。


 潮風が通り抜け、髪を揺らす。


 ユウリは、並んで歩くティアの歩幅に合わせて、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。


 その一手間に気づいたのは、ティアだけだった。


 ティアは一度だけ、ユウリの横顔を見上げた。


 言葉にはしなかった。まだ恥ずかしいから。


 でも、胸の中ではもうはっきり宣言していた。


 ボクは主様の槍。

 守る時はいちばん前に立つ。

 でも隣にいる時は、主様と同じ景色を見る。


 それが、ボクの場所。


 少し後ろでは、ミナがふわふわした尻尾でリアナの手をくすぐっていた。リアナは困ったように笑っている。


 そのさらに後ろで、βの光が海面にやさしく映り、さざ波に揺れていた。


《観測ログ更新》


 βの声がやわらかく漂った。


《“歩きたい”という要求、処理完了。進行方向――良好。新たな航路、確定》

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