第99話「潮風の朝 ― 歩きたいと言えた日 ―」
夜がほどけて、港の色が変わっていく。
リュミエルの朝は静かな立ち上がりだった。黒い水平線に薄い橙が差して、波の縁だけが銀に光る。昨夜は濡れた石畳も、今はもう乾いている。港に並んだ小舟の帆が、潮風に小さく鳴っていた。
潮の匂いは強い。けれどそれは、砂漠の乾いた風をずっと吸ってきた身体には心地よかった。焼けた皮膚と、疲れた心をゆっくり洗ってくれる感じがした。
宿の前で、ユウリは腕を組んで空を見ていた。
もう十分に戦っているはずなのに、表情はあまり緩まない。癖みたいなものだ。見張りの顔を、すぐにはやめない。
その横に、淡い光が揺れた。
《報告。現在の潮流は南東方向。風速は安定域内。港周辺の騒乱要素、検出ゼロ……たぶん》
βのホログラムが胸の高さで浮遊している。薄い青白い輪郭。声は落ち着いて、けれど少しだけ柔らかくなってきた。
「“たぶん”って便利だな」
《便利です。……たぶん》
「お前、器用になったな」
《学習中です。いまの“たぶん”には、安心の意味が含まれています》
「安心、ね」
《はい。港は安全。仲間の心拍も落ち着いている。だから“安心”を含めて“たぶん”です》
ユウリは、目だけで笑った。
「だいぶ“仲間らしい”言い回しになってきたな、β」
《仲間。はい。そのタグで自己定義を更新しています。……たぶん》
宿の看板の陰で、朝の風に光がちらちら溶けた。βはもう、ただ情報を吐き出す装置じゃない。ユウリに「今は安全」と告げることそのものに、意味を見いだしている。
その変化にユウリも気づいている。
けれど、わざわざは褒めない。わざわざ褒めたらβはきっとフリーズする。だから、いつもみたいに淡々と受け取る。それが“普通”として扱うことになるから。
扉がきい、と開いた。
ティアがそこに立っていた。
まだ寝癖が少し残っている。小柄な体の動きは落ち着かない。肩にかけた簡易鎧のベルトを何度も直そうとして、直せていない。顔は、頬だけ真っ赤だ。
「…………」
口を開こうとしては閉じ、開こうとしては飲み込み、それでも諦めずに一歩ずつ前に進んでくる。
その背後から、ミナがこそっと顔を出す。リアナも少し離れたところにいて、静かに見守っていた。βはそちらの方に小さくふわりと移動する。
《観測:ティアの心拍、上昇。ミナの心拍、同期上昇。緊張、共有状態》
ユウリはティアの方へ視線を向ける。
「ティア」
呼ばれただけで、ティアの肩が小さく跳ねた。
「し、主様……っ」
言いかけて、のどにつかえる。うまく言葉が出てこない。昨夜のうちに何度も練習したはずのひとことが、出てこない。
港の朝の音が遠くなる。
帆のきしむ音、波のこすれる音、船員同士のぶっきらぼうな挨拶。全部、少し遠くなる。
息を吸って、吐いて。
ティアは拳をぎゅっと握った。
「ボク……っ、主様と……」
喉に力が入りすぎて、声が震れる。
「ボク、主様と、一緒に歩きたいっ!」
言った瞬間、顔が真っ赤になった。すぐに視線を落とす。耳も、襟足も、鎧の下の首筋も、ぜんぶ熱い。
宿の前の空気が、ほんの一瞬だけ止まる。
ユウリは何も言わず、ただ数秒見ていた。無表情に見えるけれど、その沈黙ごと受け止めている。
やがて、ほんのわずかに口元が動いた。
「もう歩いてるだろ」
ティアはきょとんと目を上げた。
「え……」
「砂漠も、街道も、赤鎖の根も。お前はずっと、俺の隣にいた。倒れるときは前で。笑うときは隣で」
ティアは一瞬だけ息を止めた。
そのあと、かすかに、目尻が潤む。
わかりやすい言い方ではなかった。でも、わかった。ちゃんと聞こえた。「それでいい」って言われたことが、ちゃんと伝わった。
けれど、ユウリはさらに言葉を足した。
「ただ、今日は“ちゃんと隣”にな」
「……うん」
ティアはこくんとうなずいた。今度は逃げなかった。視線は真っ直ぐで、頬は真っ赤で、でも胸は張っていた。
彼女の中にあったもやが、ひとつ外に置かれた。
ミナが、じたっと足踏みした。
「……ずるい」
リアナがミナの肩を軽く押さえる。
「落ち着きましょう。朝から騒がしいと、宿の人が困ります」
「落ち着いてるもん。すごく落ち着いてるもん。落ち着いて、むっ、ってなってるだけだもん」
《観測ログ追記。ミナの感情タグ、“嫉妬”》
βがいつも通りの調子で、だがどこか得意げに報告した。
「ちょっと待って今なんて言った!?」
《嫉妬、です。たぶん》
「“たぶん”やめなさいよぉぉ!」
「β、からかいはほどほどにしてあげてくださいね」
《すみません。……たぶん》
リアナがため息をこぼす。ティアはそのやり取りを聞きながら、肩の力を抜いた。さっきまでの緊張がやっとほぐれていく。
ユウリが一歩、港の方へ歩き出す。
「荷は置いたままでいい。今日は休む」
「休む……?」
「戦闘なし。救出なし。騒ぎなし。あとは魚とパンだ」
ティアの目が一気に輝いた。
「魚!」
ミナも尻尾をぶんぶん振った。
「パン!」
リアナは小さく笑った。
「休む、と宣言してくださるだけでずいぶん助かります」
「お前らも今日は力抜け。ここは血の匂いがしない。……珍しい」
その一言で、全員の顔からわずかな緊張が消えた。ほとんど無意識のうちにかかっていた“戦場の癖”が、ふっと外れる。
こうして息を抜ける時間そのものが、もうほとんど贅沢に近い。誰もそれを口にはしなかったけど、全員わかっていた。
港の通りを歩きはじめると、潮風が正面から吹きつける。
船の人間たちが網を干している。朝市の女たちが塩と香草で魚を並べている。焼き立ての平たいパンの香りと、スープ鍋の湯気の匂いが混ざる。街全体が目を覚ましはじめている匂いだった。
ティアは、ユウリのすぐ横を歩いた。
ほんの肩半分ぶん、距離を詰めて。
その距離は、彼女にとっては特別な距離だった。戦闘の時は前に出るし、護衛の時は半歩後ろに回る。横に並ぶのは、実は少ない。だから今は、とても大きい。
ティアは、胸の奥でそっとつぶやいた。
主様の歩幅に合わせられる。これだけで、こんなにあったかいんだ。
少し後ろを、ミナとリアナが並んで歩く。
ミナはぶつぶつ言っている。
「ぜんぜん嫉妬じゃないし。ただその、ミナも主様の隣で魚の匂い嗅ぎたいだけだし。ただそれだけだし。べつに他意はないし」
「はいはい」
「リアナさん、今テキトーに流したでしょ」
「してませんよ」
そのさらに後ろを、βのホログラムがふわふわとついてくる。灯りの粒のように。道端の人々は、一瞬だけそれを見てから、あえて見ないふりをする。港町は情報が早い。変わったものには驚くが、あまり詮索しない。稼ぎにならないからだ。
《追加報告。市場南側の路地から、微弱な構文ゆらぎを検出。波形は通常の魔力流ではなく、外部因子の干渉と思われます。強度は低。現状、無視推奨》
βの声が少しだけ硬くなる。
ユウリは足を止めずに耳だけ傾けた。
「どのくらい“低い”?」
《直接衝突すれば即座に制圧できる程度。周囲被害は限定的。ティアの単独行動でも収束可能……たぶん》
ティアの肩がわずかに上がった。
ユウリはすぐに言葉を落とした。
「今日はやらない」
《……了解。撤回します。優先度、待機に変更》
βの光が一瞬だけ揺れ、ふっと落ち着く。
《ただ、補足。構文ゆらぎの波形の一部が、既知ログとの一致率14%》
「どのログだ」
《“ゾルド”と記録されている戦闘データに近似。完全一致ではありません。たぶん、同一個体ではない》
ティアはユウリを見上げた。
ユウリの目は、さっきまでより少しだけ鋭かった。でも、すぐに戻った。焦りはない。即時戦闘を選ばないということは、今は本当に「休み」を優先したってことだ。
ティアの胸の奥が、じん、と熱くなる。
ちゃんと守ろうとしているのが分かる。自分も、ミナも、リアナも、βも。今朝は誰も壊したくない、って顔だ。
βが静かに続ける。
《観測ログ更新。新しい危険因子は存在する。けれど今は、攻める必要はなし。……これは、わたしの提案です》
「そうか」
《はい。……たぶん》
「いい提案だ。採用する」
βの光が、ほんの少しだけ明るくなった。
港の朝日が傾き始め、白い壁の家並みに反射して眩しい。遠くでカモメがはしゃいでいる。パンを売る店の前で、子どもが列を作っている。誰かが笑っていて、誰かが文句を言っていて、誰も血を流していない。
ティアは思った。
こういう景色を見るために、ボクたちは戦ってきたんだ。
そう思った瞬間、胸の真ん中にあったざらざらした棘が、すっと溶けた。
昨日の夜、リアナに打ち明けたこと。恥ずかしくて、でもどうしても言いたかったこと。それをちゃんと主様に届けられた。ちゃんと受け取ってもらえた。
それだけで、世界の見え方が変わる。
風の匂いがやわらかい。空が広い。石畳がちゃんと地面だって感じる。ここは檻じゃないし、棺でもないし、命令されてひざまずく場所でもない。
ティアは小さくうなずいた。
主様の隣、あったかい。
ボクはもう、迷子じゃない。
でも、それだけじゃ足りないことも分かってる。
主様がもし倒れそうになったら、支えるのはボクがいい。どこの誰でもなく、ボクがいい。セリスでもいいけど、でもボクがいい。そういう気持ちがちゃんと胸にある。
ティアはそれを、はっきり自分のものとして抱えることにした。
それは重くない。むしろ、背骨が一本通ったみたいに、身体が軽く感じた。
潮風が通り抜け、髪を揺らす。
ユウリは、並んで歩くティアの歩幅に合わせて、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。
その一手間に気づいたのは、ティアだけだった。
ティアは一度だけ、ユウリの横顔を見上げた。
言葉にはしなかった。まだ恥ずかしいから。
でも、胸の中ではもうはっきり宣言していた。
ボクは主様の槍。
守る時はいちばん前に立つ。
でも隣にいる時は、主様と同じ景色を見る。
それが、ボクの場所。
少し後ろでは、ミナがふわふわした尻尾でリアナの手をくすぐっていた。リアナは困ったように笑っている。
そのさらに後ろで、βの光が海面にやさしく映り、さざ波に揺れていた。
《観測ログ更新》
βの声がやわらかく漂った。
《“歩きたい”という要求、処理完了。進行方向――良好。新たな航路、確定》




