第98話「潮騒の夜、ティアは眠れない」
リュミエルの夜は静かだった。
昼間は船乗りの怒鳴り声や商人の値切り合いでうるさい港町も、夜になると潮と灯だけになる。外の通りにはゆっくり揺れるランタンが並び、海からの風が塩と魚と油の匂いを運んでくる。
宿の二階。借りた部屋のひとつで、ティアはベッドの上に丸くなっていた。
目は閉じない。眠れない。胸が落ち着かない。
部屋の中には、彼女とミナ、そしてリアナ。壁は石と木でできていて、港町らしく少し湿っていた。窓は半分だけ開いていて、波音がずっと聞こえている。
ミナはもう寝ている。布団に顔をうずめて、尻尾だけがふわふわ揺れていた。安心しきった動物みたいな寝息を立てている。その寝息が、ティアにはちょっとだけうらやましかった。
リアナは小さな灯のそばで祈っていた。手を胸に当てて目を伏せ、誰かに許しを乞うような祈りじゃなく、誰かの無事を願う祈り。今のリアナはそういう祈りしかしない。ティアはそれをちゃんと知っている。
ティアは天井を見た。
「…………」
言葉にならない呼吸がこぼれる。
さっきまでのことを思い出す。
ユウリとセリスが二人で部屋に残って話していた。港と、街と、この先のこと。セリスが静かな顔で立ってて、ユウリが窓のそばで潮風を吸ってて、声の調子が落ち着いてて。
その光景が、ティアの胸にずっと引っかかっている。
ミナは言ってた。「ずるい」。あれは嫉妬の音だ。あの子は分かりやすい。
ティアは、もう少し複雑だった。
別にセリスが嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。戦い方はぜんぜん違うけど、体の使い方が無駄なくて、風みたいに動くエルフで、落ち着いてて、怖い場面でも顔が乱れない。かっこいい。そう思ってる。
でも。
胸の奥に、何かがつっかえて落ちない。
モヤモヤ、という言葉だけでは足りない。熱いけど苦い。焼けるのに冷たい。息が浅くなる。戦ってる時の「熱」は気持ちいいけど、これはそうじゃない。のどの奥だけがぎゅっと掴まれて、叫んでも出ない。
これ、なんだろう。
ティアはそれを知りたいけど、うまく言葉にできない。
たぶん、ユウリなら説明できる。でも、それを聞いてしまったら負けのような気もする。
それがまた、よくわからなくて苦しい。
「ティア。眠れないのですか?」
静かな声が落ちてきた。リアナが祈りを終えて、椅子から身を起こしていた。灯がやわらかく揺れて、金の髪が光る。
「……眠れない」
ティアは小声で答える。
「喉、苦しくて。胸が、熱い。戦いの後のやつじゃない。なんか変。嫌いじゃないけど、好きな感じとも違う」
「ふふっ。ずいぶん素直に話してくれますね」
「主様に言われたもん」
「なんと?」
「“息がうまく入らないときは、黙ってひとりで抱えこむと倒れる。口に出して誰かに渡せ”って」
「……本当に優しいですね、あの人は」
リアナはそう言って、ベッドの端に腰を下ろす。ティアとミナの間にそっと座る。座るだけで、温度が落ち着く。リアナってそういう人だ。熱を下げる。光を残す。
しばらく、波の音だけが流れた。
「セリスさんのことを、考えていましたか?」
ティアの肩が、ぴくっと動いた。
「べつに。……ちょっとだけ」
「ふふ」
「笑わないで」
「ごめんなさい」
リアナの声はやわらかい。からかっている響きはない。ただ、うれしそうだった。ティアがちゃんと誰かを大事に思っていることが、嬉しそうだった。
「ティア。あなたは、ユウリ様の隣に立つのが、とても自然になりました」
「うん」
「それはあなたの力。あなたが、その場所を勝ち取ったから」
「うん」
「でも、自然になりすぎると、忘れがちになるんです。“それは誰にでもできることじゃない”って」
ティアは一瞬だけ、リアナを見た。
リアナは続けた。
「セリスさんは、あなたの居場所を奪いに来たわけではありません。彼女は彼女で、ユウリ様のそばに立つ理由を探している途中。今はまださまよっている段階です」
「さまよってる?」
「はい。ティア。あなたはもう、さまよっていないでしょう?」
ティアはゆっくり瞬きをする。
リアナの言っていることは、すぐには分からなかった。でも、なんとなく分かった。
――ボクは、もう迷子じゃない。
それは、ティアが自分で思った言葉だった。
封印から目覚めたとき。竜の角は重くて、世界は冷たくて、怖くて、何も信じられなかった。あれは、迷子の時間だった。
けど。
今は「主様」と呼べば振り向く人がいる。呼べば「なんだ」と返る。名を呼ぶと、そこが帰る場所になる。だから、もう迷っていない。
そう思った瞬間、ティアの胸の苦しさはほんの少しほどけた。
でも、全部ではない。
「……でも、セリス、すごいから」
ティアは少しうつむく。
「頭いいし、主様と並んで立ってても似合うし、落ち着いてるし、ちゃんと役に立つ動きできるし。遠くの風のこととか、あたしには分からないこと、分かるし」
「あなたも同じですよ」
「ボクは突っ込んで燃やすだけだよ」
「違います」
リアナの声が、少しだけ強くなった。
「あなたが一直線に飛び込んでくれるから、みんなが動けるんです。あなたが前に立つから、ユウリ様は攻めの手を選べるんです。あなたが突っ込んでくれるから、ミナは背中を守れるんです。あなたが燃えてくれるから、わたしは祈っていられるんです」
ティアは息をのんだ。
言われるまで、気づいていなかった。言われるまで、考えたこともなかった。
自分が前に立つのは当たり前だと思っていた。そういうふうに作られたから。そういうふうに戦えるから。ただそれだけのことだった。
でも。
リアナの言い方は「役目」じゃなかった。「いてくれて、ありがとう」の言い方だった。
「……リアナ」
「はい」
「ボク、主様の役に立ってる?」
「ええ、もちろん」
「主様の“隣”に、いていい?」
「それは、あなたが決めていいことです」
ティアはぱちぱちと瞬きをした。今度は、胸の奥が熱くて痛くてどうしようもなくなる、あの苦しい感じとは違う。じわっと広がる熱。落ち着く熱。焚き火に近い。やさしい熱。
「……なんか、あったかい」
「それはよかった」
「でも、ちょっとこわい。なんかこう、ぎゅうってしたい」
「ぎゅうっと?」
「主様を、ぎゅうって」
「あら」
「あと、主様の子どもほしいって、時々、思う」
リアナの手が止まった。
ティアは真剣な顔をしていた。恥ずかしいという気持ちはちゃんとある。でも、それを隠すより「これがボクだよ」と出す方が正しい、と彼女は信じている。それを止めたことは一度もない。
「……ティア」
「うん」
「それは、主様には、まだ言わない方がいいかもしれません」
「なんで?」
「今は、色々と準備が必要なので」
「じゅんび?」
「ええ。いろいろと。とてもいろいろと」
リアナは小さく咳払いをした。頬がほんのり赤い。ティアはうつ伏せになって枕に顔を押しつけ、両足をばたばたさせた。
「はぁぁぁぁぁあああああ!」
「静かに。ミナが起きます」
「むぅ……」
ミナは幸せそうに寝ている。ティアはその寝顔を見て、少しだけ嫉妬した。ミナはいい。素直で真っすぐで、好きなら好きってすぐ言える。ずるい。
ティアは枕に顔を押しつけたまま、もごもごと声を出した。
「……主様、セリスと二人で歩いてた」
「はい」
「ボクも、二人で歩きたい」
「それは遠慮なく言って大丈夫ですよ。あなたはそれを言っていい人です」
「……言っていい?」
「言っていいです」
ティアは顔を上げた。目が少し潤んで光っている。
「明日、言ってもいい?」
「明日、言いましょう」
「うん」
ふっと、ティアの身体から力が抜けた。長く抱えていたものを少し床に置けた子ども、みたいに、肩が落ちて呼吸が深くなる。
そのとき、窓の外から低い潮騒が響いた。
波の音が少し変わった。さっきまでより近い。まるで海が足もとに寄ってきたみたいに感じる。
ティアが首を傾げた。
「リアナ。今の音、分かった?」
「ええ。……満ちてきましたね」
リアナは窓の外を見やった。灯が水面に揺れている。港の桟橋で、警備の男が二人、交代のあいさつをしていた。夜は深いのに、街は完全には眠らない。
「潮が満ちるのって、なんか好き」
ティアはぽつりとつぶやいた。
「なんででしょう?」
「うーん……こう、街に“帰ってこい”って言ってる声みたいだから」
リアナは目を細めて笑った。
「いい表現ですね」
「へへ」
「ティア」
「なに?」
「あなたも、帰れる場所があるんですよ」
「うん。ある。あるよ」
ティアは胸に手を当てた。そこには熱いものがあった。怖くない熱。大丈夫な熱。
封印の中の冷たい夢じゃない。誰かの命令でもない。鎖でつながれた檻の中の熱でもない。
今そこにあるのは、自分で選んだ火だった。
「だから、ボクは、もう迷子じゃない」
「ええ。あなたはもう迷子じゃない」
「でも、主様はすぐどっか行く」
「ふふ。それはそうですね」
「だから、ちゃんと隣にいないと。セリスに取られちゃう」
「セリスさんは取っていきませんよ?」
「でも、もしかしたら、主様が倒れそうな時、支えるの、ボクじゃないとイヤ」
「それは、とても大事な気持ちです」
「でしょ?」
「はい。とても大事な気持ちです」
リアナはそっとティアの頭に手を置いた。指先が髪を梳く。ティアは目を閉じた。安心が降りてくる。体の奥でざわざわしていた火が、毛布をかけられて丸くなる。
「明日、言う。ちゃんと主様に言う」
「なんと?」
「“ボクも一緒に歩きたい”って」
「ええ。伝えましょう」
「それから、“ちゃんと見てて”って」
リアナは一拍置いて、小さく笑った。
「それも、伝えましょう」
「うん」
静かになった。
港の夜は揺れている。潮の音は低く深く、船と杭がこすれる音が周期的に鳴る。部屋の灯は小さく、三人の影が壁に寄り添って揺れている。
ティアの呼吸がゆっくりになっていく。
まぶたが落ちかけたところで、彼女はもう一度だけ口を開いた。
「リアナ」
「はい」
「ボク、明日もがんばって“主様の一番の槍”する」
「ええ。任せました」
「うん。……えへへ」
ティアは眠りに落ちた。
その寝顔は、戦いのときの鋭い表情とも、昼の元気な笑顔とも違う。守られる側の子どもではなく、明日また誰かを守りに行く子の顔だった。
リアナはしばらく、その寝顔を見守った。
優しく撫でたあと、灯を落とす。
ミナの寝息、ティアの寝息、遠い波。
穏やかな音だけが部屋に残る。
その頃、別の部屋では、ユウリが窓辺でβの投影を見つめていた。
《報告。港の南にて、微弱な構文ゆらぎを検出。戦闘性は低。危険度、今は“無視推奨”です……たぶん》
「“たぶん”は新しいな」
《……学習中です》
「なら今日はいい。みんな寝かせろ。明日は誰も戦わせない」
《了解。ティアの心拍、安定しました。感情パラメータ、“安心・期待”。……主様、明日、呼び出されます》
「……そうか」
《はい。おそらく“歩きたい”と》
ユウリはわずかに笑った。
「いいな。歩こう」
灯台の明かりがまた一度だけ波に反射して、夜はゆっくりと更けていく。
潮が満ちる。音が寄る。
新しい朝の手前で、街全体がひと呼吸していた。




