第9話「祈りの断罪」
灰色の空が、聖堂の塔を覆っていた。
石畳に降り続く雨が、祈りの道を冷たく濡らしていく。
その中を、一人の少女が歩いていた。
聖女リアナ・エルセリア。
かつて“神の声を伝える巫女”と呼ばれ、無数の民に希望を与えた存在。
しかし今、その肩に掛けられているのは、青いローブではなく、審問用の灰布だった。
彼女の両手は鎖で縛られ、足取りは静かに石の回廊を進む。
そのたびに、銀の鎖が小さく鳴った。
――神を疑った者の音だと、背後の修道士たちは囁いた。
「異端審問官リアル・ドノヴァン卿、被疑者リアナ・エルセリアをお連れしました」
低く響く声。
分厚い扉が開くと、冷たい香油の匂いが鼻を刺した。
円形の審問室。高い天井に光が届かず、蝋燭の炎が点のように揺れている。
中央に据えられた台座の上、リアナは跪かされた。
正面には審問官長リアル。
白い法衣をまとい、手には金の十字杖。
彼の声は、祈りというよりも判決だった。
「聖女リアナ・エルセリア。汝は神聖連盟の教義に背き、“神の沈黙”をもたらした罪に問われる。異議はあるか」
「……神の沈黙は、わたしの罪ではありません。神が、わたしに……」
「神が沈黙することはない」
声が冷たく断ち切った。
リアルの瞳は氷のようで、そこに慈悲の光はなかった。
「沈黙したのは、神ではなく汝だ。己の信仰を疑い、仲間を惑わせ、勇者隊を混乱に陥れた。
報告によれば、汝は“異端者ユウリ・アークライト”の名を再三にわたり口にしたとある」
その名を聞いた瞬間、リアナの呼吸が止まった。
胸の奥で、遠い光がちらりと揺れる。
アルセリアで見た、あの青い光。
神ではなく――人の奇跡。
「……はい。確かにわたしは、その名を呼びました。
ですが、それは背信ではありません。彼は――神に代わって人を救う者です」
「黙れ!」
法杖が床を叩き、雷のような音が響いた。
蝋燭の炎が一瞬消える。
リアルの声は怒りに染まっていたが、その奥に怯えがあった。
「人が神に並び立つことは許されぬ。
神の座を侵す者を讃えるなど――それこそが冒涜だ!」
「では……神が沈黙しているこの世界を、誰が救うのですか?」
リアナは顔を上げた。
涙はもう出ない。ただ、その瞳に燃えるような意志が宿る。
「祈っても、何も起きない。奇跡は消えた。
でも、あの光だけは……確かにこの目で見たんです。
神が見放した場所で、誰かが“世界を直そうとしていた”。
――その姿を、わたしは信じただけです!」
「口を慎め! それ以上は異端宣言と見なす!」
リアルの叫びが響いた。
だが、リアナはもう俯かなかった。
声は静かに、しかしはっきりと響いた。
「……ならば、どうぞ。
神の声が聞こえぬ者を罰するというのなら――わたしを、罰してください。
けれど、どうか覚えてください。
沈黙しているのは、神ではなく、あなたたちの心です。」
審問室が凍りついた。
誰も動けない。
誰も、反論できなかった。
その沈黙の中で、リアルはゆっくりと口を開いた。
「……リアナ・エルセリア。
汝の罪、異端の烙印をもって確定する。
明朝、“浄火の儀”をもって魂の再生を試みるものとする」
浄火の儀――それは処刑を意味した。
リアナは短く目を閉じた。
そして、静かに微笑む。
「……いいえ。わたしの魂は、もう一度生まれ変わる準備ができています」
その笑みには、恐れではなく、確信があった。
◇◇◇
夜。
彼女は狭い独房の中で、鎖の音を響かせながら目を閉じた。
雨音が石壁を叩くたび、思い出す。
廃都の光――ユウリのあの背中。
彼が見せてくれた、“神ではなく人の奇跡”。
「……ユウリ様。
あなたが、もう一度“世界を直す”のなら……
わたしも、もう一度“祈り”を始めます。
今度は神のためじゃなく、人のために――」
鎖の音が小さく鳴った。
その音は、祈りの鈴のように柔らかく響いていた。
夜が明けきる前、聖堂の鐘が鳴った。
低く、重く、まるで死者の眠りを告げるような音だった。
雨は止み、かわりに白い霧が地を覆っている。
その中を、鎖の音を立てながら一人の少女が歩いていた。
聖女リアナ・エルセリア――かつて“神の代弁者”と呼ばれた者。
今は“異端”として、浄火台へと連れられていく者。
聖堂の中庭には信徒や兵士たちが整列していた。
誰も声を上げない。ただ祈るように、彼女を見つめている。
だがその祈りは、救いではなく恐怖に染まっていた。
中央に据えられた石の台座。
そこに乾いた薪が積み上げられている。
台の上でリアナは静かに立ち止まった。
「……最期の祈りを捧げる時間を与える。神の御前にて悔い改めよ」
異端審問官リアル・ドノヴァンが声を張り上げた。
その手には、白金の聖印――神の名のもとに命を奪うための許可証。
リアナは一度だけ首を下げた。
「……神よ。あなたの声を、わたしはもう聞けません。
でも――あなたが沈黙するなら、わたしが語ります」
その言葉に、群衆がざわめいた。
リアルが眉を吊り上げ、手を振り上げる。
「異端の言葉を封じよ! 火を――!」
火打石が鳴り、薪に炎が走った。
熱風が立ち上り、ローブの裾が焦げる。
リアナは一歩も動かなかった。
目を閉じ、微かに笑う。
(ユウリ様。あなたの光が、まだ――この世界にありますように)
その瞬間だった。
天が鳴った。
雷ではない。もっと静かで、もっと強い音。
空が裂け、雲を貫くように青白い光の柱が立ち上った。
「――ッ!」
群衆が一斉に空を仰ぐ。
炎が逆流するように揺れ、吹き消される。
聖堂の尖塔が震え、聖印が砕け散る。
光は天を貫き、夜の残滓を焼き尽くした。
リアルが叫ぶ。
「神の――神の御業だ! 罪人の魂が浄化されている!」
だが、リアナにはわかっていた。
あれは神の光ではない。
もっと温かく、もっと人間の形をした光。
「……あの光は、神の奇跡じゃありません」
囁くように言って、彼女は鎖を見下ろす。
鉄の環が、青白い輝きに包まれていた。
次の瞬間、パリンッと音を立てて砕ける。
それは炎ではなく――“改造の光”。
彼女を縛る構文そのものが、外から書き換えられていた。
「ユウリ様……!」
炎も煙も消えた。
残ったのは、霧と光と――自由。
リアナは崩れた台座の上で膝をつき、ゆっくりと立ち上がる。
その姿を見た信徒たちは、息を呑んだ。
“火刑を受けてなお立つ者”――それはもはや、神の敵ではなく“奇跡”の証明だった。
「……やめろ! 射殺せ! この者は神を騙る悪魔だ!」
リアルの怒号が飛ぶ。
弓兵が引き絞るが、矢はすべて光の奔流に弾かれた。
崩れる石壁、落ちる聖像。
混乱の中、リアナは裾を翻し、聖堂を抜け出した。
◇◇◇
外の空気は冷たい。
崩れた回廊を抜け、丘の上まで駆け上がる。
息が荒い。
けれど、胸の奥は不思議なほど穏やかだった。
遠く、北の空。
雲を貫く光が、まだ消えずに瞬いている。
それはアルセリア――かつてユウリが追放された廃都の方角。
「……あの人は、生きている」
確信だった。
神ではなく、奇跡でもなく――“人間の力”であの光は生まれている。
彼の手で、壊れたものが再び動き出している。
涙が頬を伝った。
悔しさでも、悲しさでもない。
ただ、ようやく心の中に“答え”が見えた気がした。
「……神が沈黙するなら、わたしが祈る。
神が救わないなら、わたしが救う。
――そのために、わたしは生き延びる」
彼女は空を仰ぐ。
青白い光が、まるで道標のように彼女の頬を照らしていた。
風が吹く。
聖女のローブが裂け、布片が舞う。
残ったのは、赤い宝石の聖印だけ。
それをそっと胸に握りしめる。
「待っていてください、ユウリ様。
あなたが“神の歪み”を直すなら――
わたしは、“人の心”を救います」
丘の上、雲が流れ、光が遠のいていく。
リアナ・エルセリアは、かつて神に仕えた聖女ではなかった。
今の彼女はただの人間。
けれど――その祈りは、神よりも確かに世界へ届いていた。




