第86話「潮騒の朝 ― エルフと竜娘の火花 ―」
朝の港は、潮の音とパンの香りで満ちていた。
白い光が海面を走り、船の帆が風を孕んで鳴る。
潮騒と笑い声が混ざり合い、どこか穏やかで、どこか新しい一日の匂いがした。
宿の二階。
カーテンの隙間から差し込む朝日を、ティアはまぶしそうに片目を細めながら受け止めた。
「……まぶし〜……でも、いい匂い」
階下からは焼き立てパンとスープの香り。
宿の女将が「朝ごはんできたよー」と明るく声を上げている。
ミナはすでにテーブルに座り、スプーンを握って尻尾をぱたぱたと揺らしていた。
「ミナ、もうお腹すいたの?」
「うんっ。今日のパン、バターの音したの!」
「音でわかるの!?」
「うん! おいしい音!」
ティアは笑いながら席についた――が、正面に座る人物を見た瞬間、ぴたりと固まった。
セリスだった。
朝の光を受けて緑髪がほのかに揺れ、琥珀が混ざる瞳が朝露を映している。
まるで、静けさそのものを纏っているような存在感。
ティアは無意識に背筋を伸ばした。
「……おはようございます」
「おはよう、セリスねぇ」
「……おはよう、ティア」
穏やかな声。
けれどティアの笑顔は微妙に引きつっていた。
長い桃色の髪が、むすっとした拍子に小さく揺れる。
(なんでそんな余裕なの……! 昨日、主様と二人で港の夕日見てたくせに!)
言葉にならない嫉妬が胸の奥で弾ける。
その瞬間――
《観測ログ更新。昨夜の主と対象セリスの“穏やか度”――上昇率12%。好感度、安定推移》
――爆弾が落ちた。
「「「…………」」」
沈黙が三秒。
ティアの髪が、ふるふると震えながら立ち上がるように揺れた。
「βぁぁぁっ!! なんで今それ言うの!?」
《報告義務》
「いらない義務ぅぅぅっ!!」
ティアが机をバンッと叩き、パンが少し跳ねた。
ミナはスプーンを持ったまま、きょとんと首を傾げる。
「ティアねぇ、髪がふわふわ踊ってる」
「怒ってるのっ! めちゃくちゃ!」
「ふわふわ怒り……かわいいの」
「かわいくないのっ!!」
セリスは小首をかしげて、ほんの少し眉を寄せた。
「……“穏やか度”って、なに?」
「そんなの知らなくていいのっ!」
「β、説明」
《“穏やか度”=対象者間の精神安定指数。つまり――》
「つまりじゃないっ!!」
ティアが顔を真っ赤にしてβをぺしんと叩く。
《……衝撃検知。出力抑制》
「ふんっ!」
リアナが優雅にパンをちぎりながら、目を細める。
「ティア、朝から全力ですね……」
「だ、だって! 昨日、セリスさんと主様が、風とか夕日とか見てたんですよ!?」
「風とか夕日とか?」
「はい! つまり、ロマンチックに決まってるじゃないですかぁぁ!」
セリスはスープをひと口。
口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……そう見えたなら、嬉しいけど」
「そ、そう見えたならって何!? 実際どうなの!?」
「ただの会話よ。――あなたたちのことを、話してた」
「え……?」
ティアが目を丸くする。
セリスは静かに微笑みながら、朝日を受けた瞳で言葉を紡いだ。
その表情には穏やかな感情のみが宿り、ティアに対する否定的な想いは一切含まれていない。
「ユウリが言ってた。“みんなのことを、誰よりも信じてる”って」
ティアの心臓がきゅっと鳴った。
目の奥が少し熱くなり、俯く。
「……主様、そんなこと言ってたんだ」
「ええ。だから、争う必要はないと思う」
「……わかってる。わかってるけど……ボク、負けたくないの」
その言葉に、セリスは穏やかに目を細めた。
「なら、負けないように――強くなればいい」
風が通り抜け、ティアの髪がやわらかく揺れた。
今度は怒りではなく、まっすぐな闘志の証だった。
「……そっか。うん! そうだね!」
「その調子」
「ありがと、セリスねぇ!」
ティアが満面の笑顔を見せ、セリスも小さく笑った。
その笑顔が、ティアにはほんの少し眩しく見えた。
その様子を見ながら、リアナがため息混じりに微笑む。
「……まったく、情緒が忙しい朝ですね」
「若さ、です!」ティアが胸を張る。
「はいはい、勢いということですね」
「勢いって言ってぇぇ!」
ミナがこっそり二人のパンを半分ずつ取っていた。
「ミナ、今、平和度100%なの♪」
「パン返して!?」
「やだの〜」
笑い声が広がる。
βの光が小さく瞬き、柔らかい声が響く。
《追記:穏やか度、全員上昇。チームの空気、安定しました》
「β、それは言っていい」
「それはいいの!?」
また一度、笑いが弾けた。
窓の外、白い帆船が港を離れていく。
潮風がカーテンを揺らし、光が差し込む。
セリスがその光を見上げて、小さく呟いた。
「……人と旅をするって、こんなに温かいのね」
ティアが隣に座り、照れたように笑う。
「でしょ? 主様と一緒だと、世界の色が変わるんだよ」
「ふふ……なるほど。あなたが元気なのも納得ね」
「えへへっ、でしょ〜!」
ミナがパンを頬張りながら笑う。
「みんなの顔、朝の太陽より明るいの!」
「上手いこと言うね、ミナちゃん」リアナが微笑む。
こうして港町の朝は、笑顔とともに静かに始まった。
光の中で、旅立ちの準備はもう動き出している。




