第83話「咆哮する空 ― 風を喰らうもの ―」
世界がちぎれたみたいに、視界が分かれた。
ティアとミナは上層の渦の中、風喰いの胸元付近。
リアナとセリスは船の上、下層の安全圏ぎりぎり。
そしてユウリは――渦の奥にひとりで引きずり込まれていた。
アルシェ号の甲板にしがみつきながら、セリスが空を見上げる。
「……見える。ティアとミナ、まだ動いてる! でもユウリが……!」
リアナは両手を胸の前で重ね、祈りの結界を維持していた。
ここはまだ呼吸ができる。ユウリの構文が風を逃さないように固定したからだ。
でも、それは逆に言えば――あの上にはもう、まともな空気がないということでもある。
「ティアは勢いでどうにかします。でも……ユウリ様が今動けないのなら、サポートなしであの怪物に勝てない」
セリスの手が少し震える。
「……わたし、風を繋ぎたい。あの子たちのところまで。でも、あそこは風そのものが食べられてる。送ろうとした風が、途中でちぎれる」
「じゃあ、逆にしましょう」
リアナが目を開いた。
「新しい風を送るんじゃなくて、“あの子たち自身の風”を、こちらに繋ぐのは?」
セリスがはっとした。
「“こちら側と同じ場”に繋ぎ直す……? それなら……届く。届くかもしれません」
「なら、やってください」
リアナは微笑み、しかし声色は強い。
「わたしたちの仲間は、あの嵐の中にいるんです。孤立はさせません」
「……了解」
セリスは目を閉じ、深く息を吸い、吐いた。
彼女の声が、静かに風に混ざる。
「――聞こえる? ティア。ミナ。あなたたちの場所、こっちに繋げるから」
◇
上層の渦。
雷の白と、嵐の黒と。
そのど真ん中で、ティアが拳を構えて立っていた。
背中に、ミナがぴたりと付いている。
「ティアっ、こっち左! あいつの渦、回転ズレた! 今なら近づける!」
「了解っ!!」
ティアは風喰いに向けて足を踏み出す。
足元の空間ががくんと沈む。そこはもう地面でも空でもない。ただ吸われるだけの場所。落ちたら最後、力ごと吸い潰される。
だがティアは止まらない。
燃えろ、じゃない。
燃えてなくてもいい。
“燃やしたい”って気持ちだけは、絶対に吸わせない。
「おい風ドロボー! ボクの力勝手に飲んで美味しいかぁぁぁッ!? そういうのはねぇ! 泥棒って言うんだよぉぉッ!!」
ティアの拳が走る。
風喰いは竜のかたちをしていた。
翼はない。代わりに全身から渦が噴き出し、肉の代わりに嵐が詰まっている。
胸の中心――そこだけ、回転が逆。そこが心臓だ。
「ティア、そこ! そこ叩けば“効く”の!」
「任せてっ!」
拳が、風喰いの胸を撃つ。
ドン、と鈍い衝撃が走った。
風喰いの表面が一瞬だけ揺らいで、渦が割れた。
黒い霧の下から、灰色の核みたいなものがのぞいた。
まるで古い魔導器の一部。鉄と骨が混じったような、嫌な色。
ティアが目を細める。
「……あんた、ただの嵐じゃないんだね」
ミナの声が低くなる。
「作られてる。これ、生き物じゃないよ。生かされたもの」
風喰いが口を開いた。
音はない。だけど明らかに“吠えた”。
その吠えで、世界が軋んだ。
ティアの膝がぐらつく。
「くっ……! なにこれ、頭の中から引っ張られる……!」
「ティア、耳ふさいで! 今の“声”、力まで吸ってくるの!」
「へ? 声で吸うの!? そんなのアリ!?」
「アリだったの! いま食われかけたの!」
「のぉおおおおお許さなあああああいッッ!!」
ティアが吠えて再び飛び込もうとしたその時。
ミナの耳が、ぴんと跳ねた。
「……きこえた」
「え?」
「ティア、いま、セリスの声聞こえたの」
ティアは目を丸くした。
「ここまで? だって風、全部吸われてるのに」
「ちがう。風じゃなくて“つながり”で来てる。セリス、こっちに道つくってくれてるの」
ふっと、ティアの胸が軽くなった。
それはほんの少しのことだ。
でも、そのほんの少しが、彼女を立たせ続ける。
「ふふっ……いいじゃん。置いていかれたとか思って、ちょっと泣きそうだったのに」
「ティア泣いてたの?」
「泣いてなぁい!」
「うん、泣いてないの。今は怒ってるの」
「そう! 今は怒ってるの!!」
二人の足元に、淡い緑の光がゆっくり広がっていく。
セリスが、風の道をこちらに繋いだ。
これで、もうひとつ孤立じゃない。
◇
同じ頃。
渦のもっと奥。
風喰いの巨体のさらに向こう側に、ユウリは押し倒されるようにしていた。
視界は暗い。耳はまともに働かない。全身から体温が抜けていく感覚だけが生々しい。
呼吸をひとつするたびに、力をひと口ずつ盗まれている感じだった。
「……飲み込みやがって。ずいぶん下品なやり方だな」
ユウリは片目を開け、手を前に出す。
構文光がじりじりと点滅した。
だが、すぐに削られていく。まるで術そのものを舐められてるみたいに消える。
「なるほど。構文も“動力”扱いで吸えるってわけか。これは面倒だな」
《マスター。》
耳元で、光の粒みたいな声が響く。
βだ。
ノイズ混じりだ。ところどころ、聞こえない。加工されたみたいにザザッと切れる。
《マスター……聞こえますか……応答を要請……ユウリ》
「聞こえてる。こっちはまだ食われてねぇ。報告しろ、β」
《はい。対象存在――“風喰い”内部から、制御信号の痕跡を検出。》
「制御信号?」
《この嵐は自然発生ではありません。遠隔からの指令で起動・維持されています。》
ユウリは目を細める。
「……つまり、“誰かが”動かしてる。これはただの生き物じゃなく、操られてる」
《はい。さらに解析を継続――》
βの光が一瞬ちかちかと途切れ、次に現れた声は、わずかに低く、固かった。
《干渉波に識別名が含まれています。送信者識別:ゾルド・ガルバ》
ユウリの呼吸が止まった。
その名に、何の感情も結びつかない。初めて聞くはずなのに、嫌な温度だけははっきり伝わる名前だった。
「ゾルド・ガルバ……」
《推定:本体はこの場に存在せず。遠隔観測および制御のみを実施。目的不明。》
「……こっちを試してるって線は?」
《ありえます》
「なるほどな」
吐き捨てるように言ったその声は、冷たかった。
ユウリは再び前を見据えた。
風喰いの内側は、ただの嵐じゃない。
円環状に組まれた構文の“骨”がある。
渦はその骨に巻き付いて制御されている。
まるで誰かがわざと“兵器”にしたみたいに。
ユウリは舌打ちした。
「遠くでのんびり見てるやつがいるってわけか。こっちの動き、全部観測しながら」
《はい。結論:ゾルド・ガルバはあなたたちを観察しています。》
「……そうか。じゃあ、見せてやらねぇとな」
ユウリはしゃがみ込む。
両手をその渦の骨組み――風喰いの中枢に近い部分へ、ゆっくりと添えた。
「こっちの“正解”を」
◇
上層。
ティアが突撃に備えて身体を沈める。
足場なんてない。だけど、ミナがいる。
ミナが影を走らせ、ティアの踏み込みたい位置にだけ一瞬“固い場所”を偽装する。幻で。
支える時間はほんの一瞬。でも、ティアには十分。
「ティア、右、三歩! 次の足場そこ!」
「了解っ!」
「そのあと左上! 渦の向き入れ替わるから跳ぶの!」
「了解っっ!!」
「最後は――ティアが決めて!」
「任せてって言ってんでしょ!!」
ティアの体が爆ぜた。
風も炎も奪われ、それでも彼女は自力で押し切る。
全身の力を一点にまとめた拳が、風喰いの胸の中心――灰色の核へ向かって突き出される。
「“ボクたちの風”返せぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
拳が当たる。
ひびが走る。
風喰いの全身がのけぞる。
だが――崩れはしない。
まだ耐える。
ぐわ、と逆流した渦が、ティアの身体を飲み込もうとする。
「ティアっ!!」
ミナが叫んだ瞬間、空間が歪んだ。
風が、押し返した。
セリスの声が、頭に届く。
『繋ぎました! 今、あなたたちの位置とこっちの風を“同じ場所”にしてる! 落ちないで!』
「セリス……!」
『まだ押せる! でもそれじゃ足りない! あと一押しが……!』
ティアは笑って、歯をむき出しにした。
「あと一押しなら、あるよ」
声は震えていない。
目はまっすぐ前を見ていた。
「主様の分」
その時、風喰いの体内で青い光が爆ぜた。
ユウリの声が響く。
「ティア! ミナ! 聞こえるなら合わせろ!」
「聞こえる!!」
「聞こえるの!」
「よし、いくぞ!」
風喰いの中枢構造。
そこに組み込まれていた“風を吸い続ける骨組み”――ユウリはそこに、自分の構文を噛み込ませていた。
奪う力を、逆流させる改造。
風喰いは風を吸う。
なら、その吸い口を逆に“吐き出す口”に組み替えてやればいい。
「《逆流指定――吐き出せ》」
青い光が走る。
風喰いの胸が、内側から膨らんだ。
渦が止まり、次の瞬間――爆ぜるように外へ吹き出した。
ティアの拳が、そこに重なる。
「てめぇの腹の中のもんは、ぜんぶ外に出してからじゃないと消化に悪いんだよぉぉぉッ!!!」
直撃。
風喰いの胸が裂け、灰色の核に大きな亀裂が走る。
巨体がよろめいた。
渦はまだ消えない。
でも、はじめて、“倒れる”という動きが生まれた。
ミナが荒い息をつきながら言う。
「ティア、今ので半分は砕けたの! あと半分!」
「了解っ! あと半分ってことは……次で終わりだね!」
ユウリの息は荒い。けど、まだ笑っていた。
「聞け、二人とも。これで終わらせるぞ」
「うん!」
「うんっ!」
「次の一手は――セリスの起動待ちだ。セリス」
セリスの声が風に乗る。
『準備できてます。わたし、やります。今度はわたしも殴ります』
「それ最高だな」
リアナの声も重なる。
『全員、生存を最優先で。絶対に帰ってきてください』
「はい!」
「もちろん!」
「当然だ」
ティアは拳を構えなおした。
風喰いが、最後の吠えを上げる。
その吠えの奥で、誰かが見ていた。
この状況を、観測している“外側の目”がある。
ユウリは、見えないその誰かを睨むように言った。
「なぁ、ゾルド・ガルバ」
その名を、はっきりと呼んだ。
「お前がどこにいようと、これはちゃんと見てろ。これが俺たちのやり方だ」
風が震える。
空が裂ける。
決着の一撃が放たれた。




