第82話「風裂の空域 ― 嵐の門を越えて ―」
海は切り裂かれていた。
アルシェ号の前方、空と海の境目に、黒い壁みたいな雲が立ちはだかっている。渦を巻く雷雲が、まるで巨大な生き物の口みたいに開いて、こちらを飲み込もうとしていた。
「……あそこが“風の門”か」
ユウリが舵輪を握りながら低く言った。
「門っていうより、バケモノののどちんこって感じなんだけど……」
ティアが腕を組んで唸った。
「のどちんこって言わないの」リアナが即座に言った。
「じゃあ何? アホみたいな大嵐?」
「それはそれで語彙がひどいな」
言葉は軽くても、緊張は全員の空気に乗っていた。
この嵐は普通じゃない。風の流れが不自然だ。押し寄せてくるはずの風が逆向きに吸い込まれ、音が途中でちぎれて消える。
ミナが甲板にしゃがみこみ、指先を板に当てた。
「……音、飲まれてる。船のきしむ音も、波の音も、途中で消えるの」
「また“止める力”か」
セリスが風を感じるように目を閉じる。髪が揺れるたびに、彼女の表情が少しずつ険しくなった。
「違います。これは“止める”じゃない。“吸ってる”んです。風そのものを食べてる」
「食べてる?」ティアが眉をひそめる。
「はい。だから嵐が生き物みたいに膨らんでる。風を全部、自分の身体にしてる」
「……風を喰うやつ、ね」
ユウリは舵を固定し、全員に視線を向けた。
「よし、行くぞ。《再定義者》全員、臨戦態勢。役割確認だ」
「はい!」
「はーい!」
「了解」
「任せてください」
それぞれの声が重なる。
「ティアは前線。突入役。無茶はするけど死なない範囲で暴れろ」
「死なない範囲ならOKってことね! うん任せて!」
「そういう言い方じゃない」
「はいはい真面目にやりますっ」
「ミナは索敵とルート確保。風の流れを読むのはお前が一番速い。みんなを迷わせるな」
「うん。ミナ、ちゃんと導くの」
「リアナは防御と支援。雷が直撃したら即回復。あと俺が倒れたら優先で起こせ」
「あなたが先に倒れる前提で話すの、やめてくださいね?」
「それは全員の命が乗ってるからだ」
「……ええ、わかってます」
「セリスは風そのものの制御。あの嵐は風を奪って武器にしてる。なら“奪われない風”ってのをこちら側に固定してくれ。お前にしかできない」
セリスは迷いなく頷いた。
「やっと私の番ですね」
「βは常時解析。異常反応は一秒でも早く知らせろ。隠すな、濁すな、わかりにくい言い方するな」
《了解。曖昧な表現は使用しません。》
「よし、全員行動開始だ。突入する」
アルシェ号は嵐へ向かって進みだした。
空が低く唸る。黒い雲がうねり、雷が縫い糸のように走る。
あの雲の奥で、何かが目を覚ましている。
生き物の気配だった。
◇
渦の縁を越えた瞬間、世界がひっくり返った。
風が消えた。音も消えた。
船が悲鳴を上げているのに、その音すら途中で飲み込まれる。
空気が重い。息をするだけで胸が痛い。
ティアが歯を食いしばる。
「っ、……なんだコレ、動きが鈍い……!」
「押し返されてるんじゃない。吸われてる」
ユウリはそう言うと、片手を上げる。青い構文光が彼の周囲に浮かんだ。
「《局所加速・甲板上限定》 ――ティア、身体速度を三割上乗せ。行け」
「了解っ!」
ティアの足元が熱を帯びる。火花が散り、そのまま炎のような軌跡を残して前に跳ぶ。
風がないのに、炎が揺れる。
それはティア自身の熱だ。彼女は風に頼らない。自分の力で空気を押し出して、殴るための道を無理やりこじ開ける。
「主様ぁぁぁ! ボク先行くから、絶対来てねぇぇぇ!!」
「おい待て突っ走るな! ……くそ、速い」
ティアは船縁を蹴って跳び上がり、真っ黒な雲の層の中へと突入していった。
その背を、すぐに小さな影が追う。
ミナだ。
「ミナ巡回開始! ティア、見失わせないの!」
ミナは地を蹴るのではなく、揺れる甲板とロープ、マストの上を猫みたいに移動していく。影の上、影の隙間を縫うように跳び続け、いつでもティアを視界に置き続ける。
セリスが両手を前に伸ばした。
「ユウリ。船、このままだと押し戻されます。ここは風が全部、あっちに吸われています」
「ああ。だから――ここに、俺たちの風を固定する」
「固定……?」
「風ってのは流れるもんだろ? なら流れを縛るのは間違いだけど、“ここから逃げないで”って頼むくらいなら、まだ許されるはずだ」
ユウリは片膝をつき、甲板に手のひらを押し当てる。
「β、構文展開。名称。この船の周囲一帯に限定で、風流の最低値を保て」
《了解。構文起動。風流最低域を固定。流出制限を開始。》
ふっと、呼吸が楽になった。
リアナが目を瞬いた。
「……空気、戻りました」
「最低限だけな。酸素も風も、この船からは持っていかせない。こっちはこっちで呼吸する」
「そんなことまでできるんですか、あなた」
「できる。仲間が動けるなら、それでいい」
セリスが一瞬目を見開き、そしてふっと笑った。
「ユウリ、あなたってやっぱり、風のことをわたしよりわかってる気がします」
「それはない。俺はお前の言ってること半分も理解できてない。今のも正しいかどうか怪しい」
「……そういうところが安心するんですよ」
リアナははっとしたように振り返った。
「ティアたち、上空層に入りました!」
黒い雲が裂け、その中に赤い光が揺れる。ティアの炎だ。
でも、その炎が――急に、細くなった。
ティアの声が、通信の魔導細線越しに割れた。
『なにこれっ、火が吸われる!? 燃えろって言ってんのに、逆に冷える! ちょっと待って、これヤバ――』
「ティア!」
ミナが叫ぶ。
だが、声は途中でぷつりと途切れた。
雷の残光が、闇の中に巨大な影を映した。
それは、形だけ見れば“竜”に近かった。
だが翼はなく、代わりに無数の風の渦がはためいている。口のあたりは空洞で、内部は暴れる嵐そのものだ。輪郭は揺らぎ続け、まともな実体をとらえさせない。
「……………」
音はないのに、見ているだけで胃の底が冷える種類の“圧”があった。
セリスが震えた声で言った。
「風喰い……。風を食べて、生きるもの……」
《補足。敵性存在を“風の捕食個体”として仮定。暫定呼称《風喰い》。》
リアナが息を呑んだ。
「そんなものが実在するなんて……」
「現に目の前にいる」
ユウリは低く言った。
「ティア、ミナの回線は?」
《通信断。干渉が強すぎます》
「……っ。よし、状況変更だ」
ユウリが即座に指示を飛ばす。
「セリスはここで風圧を安定させろ。リアナはセリスと船の防御。βは常に位置追跡。俺は援護に行く」
「ユウリ様、待ってください! 嵐の中に直接飛び込むのは――」
「行かないとティアがあのまま飲まれる。ミナも、あいつを一人にしたくない」
リアナは一瞬だけ目を閉じ、息を整えた。
「……わかりました。戻ってきてください。ちゃんと」
「戻るさ。ティアに怒鳴られない程度の顔でな」
「それでいいです」
リアナが結界を強め、セリスが風を束ねる。
ユウリはロープを腰に巻き、マストの支柱を蹴って跳んだ。
甲板から空へ。
黒い渦の中へ。
◇
上空は、ほとんど別の世界だった。
風がないのに激しく揺れる。上下の感覚が狂う。普通なら一瞬で酔うはずの空間の中で、ティアは低い姿勢でしがみつくように構え、ミナは彼女の背中に組み付くように貼り付いていた。
「ティア、息っ、して!」
「してる! してるけど、火がぜんぶ吸われるの、これムカつくんだけど!!」
「ミナも、幻が引っ張られるの……あいつ、ミナの“気配”まで食べようとするの!」
ティアは顔を上げた。
目の前に“風喰い”がいた。
竜の形をした嵐。口が開くたび、中で雷がうねり、吸い込まれた炎が丸ごと消えていく。
ティアの炎ごと、力を、食っている。
ティアが奥歯を噛みしめた。
「おいコラ風ドロボー!! それボクの! 返せぇぇぇ!!」
叫んでも、音が飲まれていく。
ミナが低く呟いた。
「……ティア。あいつ、真ん中。胸のとこ。渦が逆回転してる場所あるでしょ。そこだけ吸い込んでないの」
ティアは一瞬、目を細めた。
「あそこが本体?」
「たぶん。あそこなら、燃やせる」
「よっっっしゃわかった!!」
ティアは拳を握り直し、全身に熱を叩きつける。
でも、熱はまた吸われる。
奪われる。
削られる。
それでも彼女は笑った。
「いいよ。そのぶん倍返ししてやるから!」
その瞬間、横から青い線が走った。
ユウリだ。
黒い嵐の中に飛び込み、片腕だけを押し出している。
その腕の周りに青い構文光が輝き、ティアとミナの周囲に淡い膜を張った。
「遅ぇぇぇぇぇぇ!! 置いてくとかひどくない!? 主様ひどくない!?」
「はいはい文句は後。生きてるからいいだろ」
「生きてるけどさぁ!!」
ティアが文句を言っているうちにも、“風喰い”が口を開いた。
吸う。
奪う。
空気だけじゃない。力ごと奪う。
ユウリはそれを見据え、低く呟いた。
「……なるほどな。これは風を止めるんじゃない。“動こうとするもの”を全部まとめて飲み込んで、自分の続きにしようとしてやがる」
「つまり?」ミナが問う。
「“動くもの=生きてるやつ”全員が、こいつのエサ扱いってことだ」
ティアの瞳が細くなる。
「じゃあムカつくね。殴っていいね」
「殴れるだけの道を俺が作る。ティアは渦の心臓をぶち抜け。ミナは動きのズレを教え続けろ」
「了解!」
「まかせるの!」
ユウリは構文を展開した。
青い陣がいくつも並び、風喰いの周囲に小さな歯車みたいな光の輪が浮かぶ。それは回転を始め、渦の一部を“正しい向き”に噛み合わせるように動きだした。
「……すご」
ミナが息を飲んだ。
ティアも目を丸くした。
「主様、それなに! 今のなに! ずるい! 教えて!」
「即席の“くさび”だ。あいつの身体は風のかたまりだろ。なら、いったん押さえつける留め具があれば、そっから先は殴れる」
「なるほどわかった! わかんないけどわかった!!」
「わかんないなら分かったって言うなよ」
「こういうのは体でわかるんだよーっ!!」
ティアが吠えた。
風喰いの身体の一部、その巨大な胸の中心――一ヶ所だけ逆向きに揺れている渦に向けて、全力で踏み込む。
炎は、もう周囲には広がらない。
全部、拳に圧縮されている。
燃やせないなら、燃える力ごと殴ればいい。ティアはそういうタイプだ。
「くらえぇぇぇぇぇぇぇ!!」
拳が走った。
衝撃が走った。
風喰いの胸に、初めて“形のある傷”が刻まれた。
渦がぶれる。
吠え声のない吠え声。
空そのものが悲鳴を上げる。
ユウリが短く息を吐いた。
「よし。効くな」
けれど。
勝ちではない。
そこまでだった。
風喰いの全身から、新たな渦があふれ出した。
それは一気にティアたちへ向かい、叩きつけるように押し寄せてくる。
「――ッ!」
「ティア、下がって!」
「ミナ、掴まってろ!」
ユウリは咄嗟に構文膜を強めて二人を後ろへ跳ばすが、自分の身体は渦の直撃を受けた。
視界が真っ暗になる。
鼓膜がきしむ。
全身から力が抜ける。吸われる。
「主様っ!?」
ティアが叫んだ。
ユウリの姿が、嵐の奥へ引きずられる。
ミナが歯を噛みしめる。
「だめ。主様取らせないの!」
小さな体で、全身の魔力を解放した。
幻走――彼女の得意な、気配をずらし、存在そのものをぼかす技。その術式を逆に使い、今度はユウリの存在を“ここだ”と強く結びつける。
風喰いはそれを飲み込めない。
“存在そのものを押し付けられる”と、捕食がうまく働かないのだ。
セリスとリアナの声が、遅れて届いた。
『ティア! ミナ! 聞こえる!?』
「聞こえるけど今それどころじゃなぁぁぁぁい!!」
『構図は把握しました! 外側から押さえられます! ユウリ様の位置、固定中!』
『今の一撃、通ってます。撃ち抜けます! いけます!』
「いけるって言ってる!」
「いけるって言ってるね!」
二人の声に、ティアがにっと笑った。
「よし。じゃあここで逃がしたら、カッコ悪いよね」
ミナがこくりと頷く。
「うん。ミナ、ティア守るから。ティアは殴るの」
「了解っ!」
「やったれ、ティア」
嵐が再び唸る。
風喰いの口が大きく開く。
ティアが拳を握り、燃える瞳で吠えた。
「次で終わらせるから、ちゃんと見てろよ――主様!!」
そして――渦の中心へ、再び突っ込んだ。
だが、その瞬間。
嵐のさらに奥。
誰もいないはずの空っぽの方角から、もうひとつの“目”が、彼らを見ている気配がした。
冷たく、観察するだけの目。
そこにはまだ、誰も気づいていなかった。
戦いは、まだ終わっていない。
これは、ただの一合目だった。




