第80話「影をまとう者 ― 止まった風 ―」
海は、息をしていなかった。
波は止まり、帆は垂れ、音が消えていた。
アルシェ号の甲板に立つティアが、頬をふくらませて言う。
「ねぇ主様、風が寝てる。サボってるの?」
「サボりじゃない。奪われてる」
ユウリの声は静かだった。
海の向こう、水平線の手前で、空気がひしゃげている。
そこだけ、まるで世界が止まったように見えた。
リアナが船べりで両手を合わせ、目を閉じる。
「……祈りも届かない。風が流れていないんです。まるで“封じ”のよう」
セリスが小さく頷いた。
「風の律が乱れています。自然な現象ではありません。誰かが意図して、止めている」
「誰かが……風を止める?」
ミナが小さく耳を伏せた。
波の音もカモメの鳴き声もない。音のない世界が、彼女の敏感な聴覚を逆撫でしていた。
「気持ち悪い……空気が、死んでるみたい」
《観測報告。気流停止領域を前方九百メートルに確認。中心に生命反応ひとつ》
βの無機質な声が響いた瞬間、ユウリの表情がわずかに引き締まる。
「ひとつ、か。――全員、警戒」
甲板が軋む。
ティアが前に出て拳を鳴らした。
「主様、燃やしていい?」
「まだだ。状況を見ろ」
「はーい……」
「ちゃんと聞いてくださいね?」
リアナがため息まじりに言うと、ティアは素直に肩をすくめた。
――その時だった。
海の真ん中。
誰もいないはずの場所に、“影”が立っていた。
黒い布をまとい、輪郭が揺らめく。
人のようで人でない。光を吸い込むような存在。
ミナが目を細めた。
「……においがしない。生き物じゃない。空っぽ」
「空っぽ?」
ティアが眉を寄せる間に、影が口を開いた。
「――止まれ」
声が響いた瞬間、空気が凍る。
波も、風も、鳥の声も。世界が“無音”になった。
「うっ……!」
ティアが耳を押さえ、眉をひそめた。
「なにこれ、頭がキーンってする!」
「“音”まで封じてる……」
セリスが呟く。
「風そのものを“止める構文”です」
影が言葉を続けた。
「この海は、静寂に還る。風は争いを運ぶ。だから、止めた。静けさこそ救いだ」
「……救い?」
ユウリが目を細める。
「お前の“救い”で誰かが死んでる。漁師も、旅人も、もう家に帰れない」
「死は静寂。静寂は安らぎだ」
「違うな。それはただの“停止”だ。生きるってのは、動くことだ」
影が動いた。
腕を上げた――瞬間、無音の衝撃波が船を叩いた。
「ティア、前衛!」
「了解っ!!」
ティアが甲板を蹴って跳び出す。
燃えるような拳を影に叩き込む。
熱が爆ぜ、空気が歪んだ。
だが、拳は止まった。硬い壁に押し戻されるように。
「うそっ、当たってない!?」
「熱は、音だ。音は動きだ。動きは封じた」
影の声が波紋のように広がる。
ティアが弾かれ、ミナがすぐさま駆け出した。
「だいじょうぶ!?」
「平気っ……まだ!」
ミナの短剣が光り、影の背後を斬る。
霧のような抵抗感。だが、確かに“核”の感触があった。
「真ん中、固い! そこが本体!」
「β、中心座標ロック!」
《座標確定。対象胸部、反応安定》
「よし。リアナ、防護結界を」
「すぐに!」
リアナの祈りが船全体を包む。
空気が少し戻り、呼吸ができた。
ユウリは片手をかざし、構文光を走らせる。
「セリス、風の流れをつなげ。道を作るだけでいい」
「わかりました」
セリスが目を閉じる。
彼女の周囲に、淡い緑の粒子が立ち上がる。
その指先から、細い一本の風の筋が走り――影の胸へまっすぐ伸びた。
「ティア、行け!」
「了解ぃぃぃっ!!」
ティアが炎を纏って突っ込む。
今度は風の道を滑るように。
拳が、光と熱を纏い、一直線に――影の胸を貫いた。
「ボクたちの風を止めんなぁぁぁっ!!」
光が爆ぜ、海が震えた。
影の体に亀裂が走り、黒い粒子がこぼれ落ちる。
風が、かすかに戻る。
「……干渉を……やめろ……世界は、止まるべきだ……」
「止まらせない」
ユウリが歩み出る。
片手を掲げ、構文を重ねる。
「《再定義――風は流れる》」
青い光が走り、影の体を覆った。
瞬間、黒い靄が破裂するように散り、海面が波立つ。
風が、戻った。
影は崩れ落ち、霧のように消えていく。
その消え際、かすれた声だけが残った。
「……さむい……」
リアナが目を伏せた。
「この存在……魂の抜け殻。誰かに操られていました」
ユウリは息を吐いた。
「β、制御の痕跡は?」
《検出。外部からの制御信号を確認。人格構築体。遠隔干渉の痕跡あり》
「……誰かが、こんなものを作ったのか」
《制御源は不明。信号波長、既知の構文体系に該当せず》
「正体不明の……何か、か」
ユウリは空を見上げた。
止まっていた風が、今はちゃんと頬を撫でている。
その風に、わずかな温度が戻っていた。
「……風、戻りました」
セリスが微笑む。
「あなたたちといると、風が安心します」
「そうか。じゃあ、もっと連れていこう」
ティアが拳を掲げる。
「よっしゃー! また勝ったー!」
ミナが小さく笑う。
「ティア、かっこよかったの」
「でしょ!」
リアナが苦笑して首を振る。
「もう、あなたたちったら……」
βの声が静かに響いた。
《航路再設定。目的地――近海遺跡群。解析波形と一致》
「よし、次はそこだ」
ユウリは頷き、東の空を見た。
朝日が、ようやく昇り始める。
止まっていた海が息を吹き返し、帆が音を立てた。
アルシェ号は、再び動き出す。
そしてその向こうには、まだ見ぬ“風の門”があった。




