第8話「堕天の聖女 ―信仰と背信のあいだで―」
――ユウリ・アークライトが追放されてから、三週間。
勇者隊は神聖連盟の命を受け、北方戦線の山岳地帯を進軍していた。
薄曇りの空。
途切れなく降る霧雨が、鎧の金属を鈍く濡らしていく。
整然と並ぶ兵たちの中で、白いローブの少女が一人、歩調を合わせずにいた。
聖女リアナ・エルセリア。
神の声を伝える巫女として、教会に生まれ育ち、祈りと奇跡を以て人々を導いてきた。
だが――今、その“声”は沈黙していた。
「……どうか、神よ。なぜ今だけ、わたしに沈黙なさるのですか」
小さな祈りは風に消えた。
返るはずの加護の光は、もう何日も現れていない。
祈っても、奇跡が起こらない。
傷を癒やすはずの光は現れず、兵たちの呻きだけが続く。
彼女は歩を止め、握った杖を見下ろした。
白木の表面には、ひびが走っている。神聖術を使うたび、杖が軋む音がした。
まるで、神の意志そのものが軋んでいるようで。
「……リアナ、立ち止まるな」
冷たい声。
前方にいた聖騎士レオン・ハーヴェストが振り返る。
雨を弾く鎧が重く鳴り、彼は眉を寄せた。
「あなたが立ち止まれば、兵が不安になる。信仰の柱が揺らげば、全て崩れる」
「……はい」
リアナは短く答える。
だが胸の内では、言葉が膨らんでいく。
(わたしが……揺らしている? 違う、もう“揺らぐしかない”のです……)
神は語らない。
勇者カイルは、日に日に苛立ちを募らせていった。
かつて共に祈りを捧げたはずの彼が、今は「神託がすべてだ」と口にするたび、リアナの胸は冷えた。
そしてその夜、ついに“ほころび”が形になった。
◇◇◇
野営地。
焚き火の明かりが揺らめく中、血の匂いが残る布をレオンが放り出した。
「癒やせ、リアナ。まだ息がある」
「……っ、はい……!」
彼女は祈りの構文を組む。
けれど、杖の先に光は生まれなかった。
何度繰り返しても、何も起きない。
ただ、兵士の息が弱っていく。
「どうした。神の加護が降りないのか?」
イリナ・ローレットが鼻で笑う。
その目には軽蔑があった。
「神の声が聞こえない聖女なんて、滑稽ね。まるで――」
「黙れ、イリナ」
リアナは震える声で制したが、火の粉が頬に当たるほど近くに寄ってくる。
「本当のことを言ってるだけよ。あんたの奇跡が消えてから、もう三日。
代わりにあの男――ユウリの理論に頼ってた頃の方が、まだ救いがあったんじゃない?」
名前を出された瞬間、リアナの心臓が跳ねた。
「……ユウリ様は、もうここにはいません」
「そうね。追放したのは勇者様だもの」
イリナは唇の端を吊り上げる。
「でも、不思議よね。あの男がいなくなってから、魔法の安定率は下がる一方。
祈りも、剣も、全部“計算が合わない”。まるで――神の方がバグってるみたい」
「――イリナ!」
レオンの怒声が重なった。
だがその声にも、かつての威厳はなかった。
兵たちは沈黙し、雨が降り出す。
その音が、まるで“神の涙”のように冷たく落ちた。
◇◇◇
夜半、リアナはひとり、天幕を出た。
雨音が布を叩き、湿った風が肌を撫でる。
遠くの山の向こうで、雷が鳴った。
祈りを捧げようとしても、もう言葉が出てこない。
それでも、両手を組む。
掌を合わせる癖は、身体が覚えている。
(どうして……どうして答えてくださらないのですか)
――その瞬間だった。
雲の下。
地平の彼方、夜を裂くように青白い光の柱が立ち上がった。
最初は遠い稲妻かと思った。
けれど、違う。あの光は消えない。
まるで、神の沈黙を破るように、空を突き抜けていく。
「……これは……奇跡?」
違う。
けれど、心のどこかで、確かに“懐かしい”と感じた。
あの光の波長、あの色――ユウリの魔力だ。
忘れられるはずがない。
リアナは思わず、杖を握りしめた。
胸の奥が熱くなる。
冷えていた信仰が、少しずつ溶けていくようだった。
「ユウリ様……?」
声が震えた。
呼んだところで届かない距離。
けれど、言わずにはいられなかった。
青白い光が、雲の裂け目を縫い、世界を淡く染めていく。
兵士たちも気づき始め、天を見上げた。
「神の奇跡だ」と口にする者もいたが、リアナは首を振った。
「……いいえ。これは、神の光じゃありません」
唇に浮かんだのは、祈りではなく笑みだった。
胸の奥からこみ上げるのは、絶望ではない――希望。
「ユウリ様。あなたは……まだ、歩いているんですね」
声が風に乗り、どこまでも響くようだった。
その瞬間、彼女の中で何かが“決裂”した。
信仰ではなく、信頼。
神の加護ではなく、人の意思。
彼女が今、初めて“自分の祈り”を持った瞬間だった。
◇◇◇
光が消える頃、リアナは静かに杖を地に突いた。
雨が止み、空が少しだけ明るくなっていく。
勇者隊の列はすでに進発していたが、彼女は立ち止まったままだ。
「……神が沈黙するなら、わたしが語ります。
神が見放すなら、わたしが救います」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、それは“背信”ではなかった。
むしろ、“新しい信仰”の始まりだった。
リアナ・エルセリア。
かつて神の代弁者と呼ばれた聖女は、この瞬間、
ただ一人の人間として――もう一度、祈りを取り戻した。




