第79話「出航 ― 再定義者、次なる地へ ―」
太陽が真上に昇るころ、遠くの水平線に黒い影が浮かんだ。
最初は雲かと思った。だが違う。風の流れがそこで途切れている。
「風が……止まってる?」
ティアが驚いた声を上げる。
《観測異常。前方一帯に気流停止領域を確認。風速ゼロ、温度変動あり。自然現象ではありません》
「例の“風封じ”の余波か」ユウリが低く呟く。
「近づいてもいい?」
「行くさ。止まった風は、誰かが“奪った”ものだ。なら、取り返すまでが俺たちの仕事だ」
ティアの瞳が燃えるように輝いた。
「了解っ! 悪党退治、再開だね!」
「張り切りすぎるなよ」
「だって、気持ちいいじゃん! スカッとするやつ!」
「そういう気持ちは大事です」リアナが微笑んだ。
「ただ、あまり派手に爆発させないでくださいね」
「努力する!」
甲板の向こうで、セリスがゆっくりと手を掲げた。
「……風が、泣いています。奪われた空気が戻りたがっている」
「なら、呼び戻してやろう」
ユウリが構文を展開する。
空中に淡い青の数式陣が浮かび、βの声が重なる。
《改造構文:風流路再構築。起動準備。》
「やるの? 主様」
「ああ。向こうの“風封じ”を崩すには、まず風を通す道を作らなきゃならん。ティア、前方の気流ラインを焼き払え。セリス、同調して“導風陣”を維持しろ」
「了解っ!」
「了解。……風よ、流れを戻せ」
ティアが拳を握り、地を蹴る。
炎の龍が海面を走り、止まった空気を焼くようにかき分けた。
同時にセリスの魔力がそれを包み込み、穏やかな旋律が風に乗る。
ユウリが構文を上書きし、βが結界の流れを補強する。
《風流再接続――成功率、上昇中。》
その瞬間、止まっていた海面がざわりと動いた。
風が戻り、波が立ち、帆が再び膨らむ。
「……戻った?」
「戻った。やっぱり、“誰かが”止めていたな」
ユウリの表情が鋭くなる。
遠く、霧の向こうで何かが動いた。
人の形――だが、まるで影そのものが海の上を歩くような姿。
「主様、何あれ」
「……“風封じ”の術者だ」
セリスが瞳を細め、わずかに震えた。
「……感じます。あの気配――生きているのに、風を拒んでいる」
リアナが杖を構える。
「どうしますか?」
「逃げ場はない。――行くぞ。止められた風を、取り返す」
ティアの拳が赤く光る。
「任せて! ボクたちの風、もう誰にも奪わせない!」
ミナが続くように腰の短剣を抜いた。
「ミナも! 今度は“影”の中まで追いかけるの!」
「……いい風だ」
ユウリは舵を押し込み、甲板の上で静かに構文を展開した。
《全システム同調。改造構文:局所加速領域――起動。》
船体が光に包まれ、波の上を滑るように疾走する。
白い飛沫が舞い、風が吠える。
その先には、影の術者が待っていた。
◇◇◇
海は静かすぎた。
船の名はアルシェ号。いつもなら帆をはらませて気持ちよく進むはずなのに、今はまるで水面に貼りついたみたいに動かない。
風が、ない。
ティアが甲板の先端に身を乗り出して、頬をふくらませた。
「主様、風が休んでる。サボってる」
「サボってるわけじゃない。奪われてる」
ユウリはそう言って、海の向こうをにらんだ。
空は薄い灰色。雲は流れず、陽の光が鈍く広がっている。水平線まで続くはずの波も、途中でぴたりと止まって歪んでいた。まるでそこだけ海が固まっているようだ。
ミナが船べりに手をかけ、耳を伏せる。
「音もしないの。カモメの声、波の音、全部ない……きもちわるい」
「これは“封じ”です」
セリスが静かに言った。
風を読むように、細い指が空中をなぞる。動きが止まるたび、わずかに眉が寄る。
「自然に起きるものではありません。意図して、風そのものを止めている。海から奪っている。……こんなふうに空気を壊す術、私は見たことがありません」
「そんなの、誰がやるの?」ティアが面倒くさそうに拳を鳴らした。
「誰か一人じゃないかもしれないけどな」
ユウリは短く息を吐き、構文端末を展開した。彼の手の周りに青い光が集まり、海面に薄い網目のような文字列がすべっていく。
「β、範囲解析。どこから“風を奪ってる”?」
《回答。前方、約九百メートル。局所的な気流停止領域を検出。中心に生命反応ひとつ》
「ひとつってことは……」ミナの耳がぴくりと上がる。
「敵はいる。ほぼ目の前に」
ティアの目がきらっと光った。
「よし、じゃあ燃やそっか」
「まだだ。相手の力がわからないまま突っ込むな」
「えぇ〜」
「“えぇ〜”じゃない。お前この前もそれで壁ごと燃やそうとしただろ」
「ちゃんと止めたもん! 半分で!」
「半分燃やす時点でダメなんだよ」
リアナが苦笑し、両手を合わせた。
「はいはい。二人とも、船の上は仲良くしましょうね。落ちたらわたしが引っ張り上げることになるんですから」
「はい……」
「はぁい……」
場の緊張がほんの少し和らいだ。だが、空気はすぐにまた張りつめる。
セリスがそっと告げた。
「来ます」
誰も動いていないはずなのに、海の真ん中に“人影”が立っていた。
そこは水深のある外洋だ。普通なら立てるはずがない。それでも、そこにいた。
黒い布をまとった影。輪郭は波の揺らぎみたいに安定せず、目も口もはっきりしない。ただ、そこに“人の形”がある。
ティアが低くうなる。
「あいつ、海の上に立ってる。ずるい」
「ずるいとかじゃない」
ミナが一歩前に出て、細い目で相手を見た。
「……あの人、においがしないの。生き物ならわかるはずなのに。からっぽ?」
「からっぽ、ですか」
リアナが表情を引き締めた。
「魂を削って術だけを残した存在かもしれません。そういう作り物は、時々……」
言いかけたところで、影が口を開いた。
声は、男の声でも女の声でもない。低い声と高い声が同時に響いているようだった。




