第78話「風の兆し ― 東方高地からの呼び声 ―」
船が海を滑る。
波は穏やかで、朝の光を受けて白銀にきらめいていた。
潮の匂いと風の音が混ざり合い、帆の影が甲板に揺れる。
ティアは船首に腰をかけ、海鳥の飛ぶほうを指さした。
「ねぇ主様! 見て! あの鳥、ずっとボクたちの船の前を飛んでる!」
「風の流れに乗ってるだけだ」
ユウリは舵のそばで答え、操舵輪を軽く回す。
βが甲板の上で淡く光を放つ。
《航路安定。現在、南東への速度を維持中。異常信号――検出まであと三分》
「異常信号?」
リアナが問い返す。
《はい。山岳帯方面から断続的に古代構文の残響。微弱ですが“意思”を持つ波形です》
「意思……?」
セリスが静かに風を読むように目を閉じた。
「たぶん、呼んでいます。東の方角から。……何かが、私たちを」
ミナの耳がぴくりと動いた。
「主様、悪い呼び声なの?」
「まだわからん。けど――放っておけない」
ユウリが視線を東へ向けた。
遠く、霞の向こうに灰色の山影がのぞいている。
◇
昼。
船は湾に入り、風が次第に重くなった。
空の色が変わり始め、潮風が乾いた匂いを運んでくる。
「……雨じゃないね。風の粒が違う」
ティアが眉をひそめた。
βが静かに解析を続ける。
《構文濃度上昇。自然現象ではありません。古代遺構由来の魔素流です》
「山からの風が混じってる。……間違いないわね」
リアナが結界の杖を握った。
「上陸地点、決定。――右舷側、入り江へ」
ユウリが操舵輪を切ると、船は滑るように進路を変えた。
波が岩肌を打ち、白い飛沫が上がる。
セリスが目を細める。
「このあたり、昔は交易の港だったはず。……けれど、今は地図にも載っていません」
「古代文明が栄えていた頃、この海岸線はまだ生きていた。
“風の門”と呼ばれていたはずだ」
ティアが甲板から身を乗り出す。
「“風の門”? なんか格好いい名前だね!」
「門ってことは、何かが通るための場所よ」
リアナの声が少し硬くなった。
「……何か、ね」
ユウリが小さく息を吐く。
◇
やがて、船は入り江に着いた。
岩場に簡易の桟橋があり、苔むした柱が風に軋んでいる。
上陸すると、潮の香りの奥に“金属の焦げた匂い”が混じっていた。
「……何か、燃えた?」
ティアが鼻をひくつかせた。
「古代構文の残滓だ。たぶん誰かが、最近ここを触った」
ユウリが指先をかざす。
蒼い光が地面の上に浮かび、円環を描いた。
《解析開始――構文層、断片的再生。映像投影可能》
「やってくれ」
βが地面に光を走らせ、空気の中に映像が立ち上がった。
それは、黒衣の人影。
仮面をつけ、何かを“祈るように”構文を刻んでいる。
セリスが息を呑んだ。
「この詠唱……風を“閉じ込める”構文。……止めの魔法です」
「風を止める……?」
ティアが眉をひそめる。
「そんなことできるの?」
「普通は無理。でも、古代の遺物を使えば、風を封じて土地を“死なせる”ことはできる」
「死なせる?」
ミナが小さく声を上げた。
「そんなの、ダメ! 風がなくなったら、人も苦しいの!」
「そうだな」
ユウリが頷く。
「β、詠唱の座標を割り出せ。そこが本拠地だ」
《解析完了。東方高地帯――“アルケイン遺跡群”の西端と一致》
「アルケイン遺跡……?」
リアナが小さく呟いた。
「伝承では、風の神殿が眠る地。……でも、そこに人が立ち入れば、風は怒ると」
「なら、確かめるしかない」
ユウリの目に、決意の光が宿る。
◇
日が沈みかけるころ、入り江の空が赤く染まった。
船の上で、ティアが空を見上げる。
「主様、あの仮面の人、悪いやつだよね?」
「少なくとも、善い意図じゃない」
「なら、倒そう。……風を止めるなんて、あたし許せない」
ユウリは微笑んだ。
「その意気でいい。ただし、突っ走るな。
“封じられた風”が相手なら、戦うより先に“開かせる”ほうが大事だ」
「了解! でも、戦うときは全力でいくからね!」
「わかってる」
リアナが小さく祈りの詠唱を口にした。
穏やかな光が甲板を照らす。
「旅が再び始まりますね。……どうか、風が味方でありますように」
「風は、味方にするものだ」
ユウリが言い、舵輪に手をかけた。
「行くぞ。――風の門を、開けに」
船が再び滑り出す。
夕陽の中、帆が赤く染まり、東の空が静かに揺れていた。
◇◇◇
翌朝。
入り江の海面は鏡のように静まり返っていた。
夜の名残を映す水の上で、ユウリたちの船《アルシェ号》がゆっくりと帆を張っていく。
「潮、上がってきてる。出るなら今だね!」
ティアが甲板から顔を出した。
風に揺れる桃色の髪が朝日を反射する。
「ミナ、ロープ持ったの! ……あれ、結び目、これでいいの?」
「逆。輪が上だ」
ユウリが手を添えて結び直す。
「力を込めなくても解けないように、指先の角度を意識しろ」
「なるほどなの! ……よし、今度は大丈夫!」
尻尾をぱたぱた揺らし、ミナが満足げに笑う。
セリスは舷側に立ち、潮風を感じていた。
薄緑の髪が朝の光を受け、ほのかに光を返す。
「風が東へ流れています。……“呼ばれて”いるのを、やはり感じます」
「それって、危険?」ティアが尋ねる。
「危険、というより“必然”です」
「よし、それなら迷う理由はないな」
ユウリが舵輪を握る。
βの光が甲板に浮かび上がった。
《航路確定。目標:東方高地、アルケイン遺跡群外縁。推定航行時間、四十七時間。》
「長い航海になりそうね」
リアナが短く息をつく。
「でも、もう“戦争”のために戦うんじゃない。人の暮らしを戻すため――それなら、どんな遠くも行ける」
彼女の声は静かだが、芯が通っていた。




