第77話「旅立ちの朝 ― 港の約束 ―」
港町リベールの朝は早い。
空が薄い桃色に染まるころ、船大工の槌の音と、魚市場の呼び声が重なった。
「ご主人様、起きて起きて! 朝いちの港パン、蜂蜜バターなんだって!」
ティアが宿の扉を勢いよく開けた。
「主様、ミナも行きたいの!」
ミナが尻尾をばさばさ揺らした。
「二人とも、先に顔を洗いなさい。塩風でべたつきますよ」
リアナがタオルを渡した。
「出発は昼前だ。買い出しは三つに分かれる」
ユウリが机に地図とメモを広げた。
「ティアとミナは食料と水。保存のきくもの優先。
リアナは寄付の仕分けと、昨日の治療のお礼回り。
セリスは港の風を見てくれ。帆走に向く潮の時間を知りたい」
「了解、隊長!」
ティアがびしっと敬礼した。
「主様、ミナ、甘いのも買っていい?」
「重くない範囲ならな」
セリスが窓際に立ち、潮の匂いを吸い込んだ。
「……風は穏やかです。午前、風向きは南東。出るなら、太陽が高くなる前が最適」
《補足。潮汐も良好。出航推奨時刻、午前十時から正午の間》
βの声が静かに重なった。
「決まりだ。昼までに戻る。――行動開始」
ユウリの合図で、皆が一斉に動き出した。
◇
市場は朝から熱気に満ちていた。
パン屋の窓から焼きたての湯気が立ちのぼり、果物商が艶やかな皮を光らせている。
「いらっしゃい! 遠征かい? なら固焼きパンと干し肉だ!」
「ください! あと蜂蜜!」
ティアが袋を抱えきれないほど受け取った。
「ミナ、干し果物も買うの。長旅は口が寂しくなるって、マリネさんが言ってた」
「二袋までだぞ」
「えーっ、三袋!」
「……二袋半」
「やったの!」
笑い声が屋台の屋根へ飛んでいく。
通りを挟んだ向こうで、重い音がした。
港の荷揚げ場で、梱包の縄が弾け、樽が転がり出す。
「危ない、子どもが!」
魚箱の影に小さな体がうずくまり、樽が一直線に迫っていた。
「ご主人様、行く!」
ティアが飛び込んだ。
足裏に熱を纏い、地面を蹴る。燃える軌跡が線を引き、樽の前へ滑り込んだ。
「《止まれーっ!》」
両手で樽を受け止める。火花が散り、板が軋む。
直後、ミナが横から樽に肩を当て、回転の向きを港外側へ逸らした。
二つ三つ、樽が跳ねて海に落ち、白い水しぶきが上がった。
「……ふぅ。セーフ!」
「小さいの、大丈夫?」
ミナが子どもの肩を撫でた。
男の子は涙目で頷いた。
「ありがと……お姉ちゃん、あつくなかった?」
「ちょっと熱い。でも、平気」
ティアが親指を立てた。
作業員が駆け寄り、何度も頭を下げる。
「すまねえ! 結び目の確認が甘かった。怪我はないか?」
「大丈夫です。次は縄を二重にしてください」
ユウリが結び目を指さし、手早く結束の仕方をやってみせた。
「この通りに。荷の重さが変わっても抜けにくい」
「助かった。本当に助かった」
作業員の顔がほっと和らいだ。
リアナが通りの端で包帯を替えていた。
昨日、星祭りの混雑で転んだ老婆が、申し訳なさそうに手を振る。
「無理をしないでくださいね。膝は明日まで休ませましょう」
「ありがとうよ、綺麗なお嬢さん。……あんたら、どこまで行くんだい?」
「東です。風が呼んでいますから」
セリスが答えた。
老婆は目を細め、潮風に揺れる彼女の髪を眺めた。
「いい風だね。ならきっと、道もいいよ」
◇
日が上がるにつれて、港はさらに忙しくなった。
帆の白が眩しく、舫い綱の上を猫がのんびり歩く。
「ご主人様、買い出し完了! ミナ、二袋半、ちゃんと守った!」
「偉いぞ」
「えっへん!」
ティアが胸を張る。
袋の隙間から、蜂蜜の瓶がきらりと光った。
「主様、味見してもいい?」
「船が出てからな」
「はぁい……」
セリスが桟橋の端で目を閉じ、風の向きを確かめていた。
髪が静かに流れる。潮の香りに、どこか山の気配が混じる。
「……不思議です」
「何が見える?」
「海風に、山の匂いが混じっています。向こうから吹いてくる。
遠い高地で、古い扉が少しだけ開いた……そんな感じ」
《観測一致。山岳帯に微弱な構文残響。周波数、旧文明系。危険度は未知》
βが報告した。
「十分だ。海を渡って、東の岸で陸路に入る。目指すは高地の手前の宿場町。
そこから先は、風と相談しよう」
「了解」
リアナが頷いた。
ティアとミナも、声を合わせる。
「出発準備、できてます!」
「ミナも!」
「よし。――その前に」
ユウリが市場へ向き直った。
露店のあいだに、昨日の灯籠騒ぎで助けた子どもたちや、パン屋の親父、負傷した作業員たちの顔が見えた。
皆がこちらを見て、少し照れたように手を振っている。
「行ってきます。戻るかどうかは約束できない。
でも、この街の“普通の朝”は、ちゃんと続く。あなたたちが続けるんだ」
ユウリの言葉に、港の空気が少しだけ引き締まった。
返事の代わりに、いくつもの笑顔が揺れた。
◇
船の準備が整った。
板橋が軋み、帆綱が歌い、舵輪が朝日を弾く。
「ご主人様、船、かっこいい!」
「ミナ、海こわくないの?」
「こわいけど、主様がいるから平気」
「えへへ。じゃあボクが一番前!」
「落ちるなよ」
リアナが救命用の縄を巻きながら微笑んだ。
「セリス、風、お願いします」
「はい」
セリスが片手を上げ、もう片手を胸に当てた。
息を吸い、吐く。
穏やかな風が帆へ届き、布が膨らみ、船が静かに滑り出す。
《出航最適化。微風補正、完了》
βの声と同時に、港の鐘がひとつ鳴った。
水面に輪が広がり、岸がゆっくり遠ざかる。
桟橋の端で、魚箱を抱えた少年が全力で手を振っていた。
市場でスリをし、昨日は灯籠の岸で泣いていたあの子だ。
「兄ちゃん! ちゃんと結ぶやつ、もう覚えた! 今日から“二重結び”だ!」
「よくやった。――次に会う時までに、港をまっすぐ立たせておけ」
「うん!」
少年が大きく頷き、両手で輪を作って掲げた。
港の人々の拍手が、風に紛れて届く。
「いい街だな」
ユウリが呟いた。
「ええ。ここにも“明日”がある」
リアナの声は、波の音に溶けた。
ティアが振り返り、胸いっぱいに息を吸い込む。
「次は何が待ってるかな! ボク、ぜったい負けないから!」
「ミナも。いっぱい走って、いっぱい守るの!」
セリスが笑みを浮かべ、視線を東へ向けた。
「風が示す道は一本です。――行きましょう」
船首がきらりと光り、白い航跡が海に一本描かれる。
日が高くなる前の、柔らかな光。
港の約束を背に、彼らは新しい水平線へ滑っていった。




