第76話「風読みの塔 ― 失われた声 ―」
朝の光が海を追いかけて丘を上るころ、リベールの人々は日常を取り戻していた。
ユウリたちは朝食を済ませ、郊外にあるという「風読みの塔」へ向かっていた。村人の話では、夜ごとに塔がうなり、鳥が近寄らないという。
「精霊か何かかな?」とティアが首をかしげる。
「古い魔導機械の残滓の類いかもしれない。調べてみましょう」とリアナ。
道は小径の草の匂いと潮風の混ざった香りに満ちている。セリスは歩きながら周囲を観察していた。風が吹くと彼女の髪が揺れ、瞳が少しだけ遠くを見るように細まる。
「この塔は、風を読む者が記録を残した場所だと村の長が言っていました」とユウリが説明する。
「昔の人は、風に言葉を聞かせていたのですね」とセリスが答える。声はいつもより柔らかい。
塔は小高い丘の上にあった。石造りの外観に苔が張り、上部の風車はうまく回っていない。塔の扉は半開きで、内側からかすかな振動が伝わってきた。
「音がする……中から何かが唸ってる」ミナが耳をすませる。
ユウリは手袋をはめ、構文の準備をする。
「注意して。歪んだ魔力や古い拘束が残っている可能性がある」
中は想像より広かった。らせんの階段が内部を巡り、ところどころで機構の歯車が錆びついている。だが、階段を上るほどに風の質が変わり、ひんやりとした空気が指先に触れた。
上層に近づくと、空気に詰まった声のようなものが聞こえてきた。言葉ではない。風のうなりに乗る、薄い呼吸のような響きだ。セリスの顔が硬くなる。
「精霊が囚われている……」
彼女はそう呟いた。
「囚われ?」
ティアが即座に反応する。
「助けられるかな……」
セリスの瞳が揺れる。
最上階に着くと、中央の古い風導器が弱々しく震えていた。風導器の周囲には光の欠片のようなもの――声の断片がまとわりつき、机や石を弾いている。断片が集まると、時折人の形をかたどる影が浮かんでは消えた。
「残留精霊、抵抗反応あり」βが淡々と報告する。《共鳴歪み率:高。機構暴走の兆候あり》。
突然、風導器の外側が軋み、錆びた歯車が外れて落ちた。機構から裂けた音とともに、鋭い風刃の群れが飛び出す。影のような精霊が形を取り、彼らに襲いかかってきた。
「敵意の具現化か!」
ユウリが叫ぶ。
ティアが飛び込み、炎槍を振るう。赤い竜焔が風刃を焼き尽くし、衝撃で何体かが散った。
だが、影は数で押してくる。短剣で素早く動くミナが風の裂け目を縫って敵を切り裂き、リアナが結界の輪を展開して仲間の被害を抑える。だが精霊は再生速度が速く、戦況は膠着しつつあった。
その時、セリスが一歩前に出た。彼女は両手を広げ、低く古い詩句をつぶやく。言葉は古語に似ているが、何かが共鳴して空気が震えた。
「――聞け、風の子らよ。ここにある記憶は争いの急所ではない。解け、静まれ」
彼女の声に、風が答えるように渦を緩めた。精霊の影が一瞬動きを止め、喉のようなところから苦しげな音が漏れた。
ユウリはその隙に風導器の根幹へ近づく。機構の中枢は古い結晶と歯車でできており、そこに不均衡な構文の刻印が走っている。ユウリは手をかざし、素早く《修復改造》を詠唱する。青い構文光が結晶に絡みつき、乱れた刻印を一つずつ書き換えていく。
「刻印を再配置。外部からの刺激を遮断する。β、精霊の波形をモニターしてくれ」ユウリ。
《了解。波形安定化に移行》とβ。
セリスはさらに古の歌を重ね、精霊の形がほとんど消えかけたとき、ふっと小さな光が一つ、風導器から抜け出して空へ消えた。風は丸く収まり、塔は静寂を取り戻した。
誰もが息を吐く。ティアは腕の火を収め、少し照れ臭そうに笑う。ミナは額の汗を拭った。
「セリス、すごいよ。あの言葉、風が全部聞いたみたいだった」ティアが言う。
「言葉だけじゃない。あなたが“触れ”たのよ」とリアナが静かに続ける。
セリスは肩の力を抜き、塔の窓から広がる風景を見た。海と村と、遠くに続く道。彼女の表情に、わずかながら安堵が混ざる。
「千年の間、聞こえない声が多すぎました。誰かの声に救われることが、こんなにも心を溶かすとは」彼女が言った。
ユウリは小さく笑って頷いた。
「力は使い方次第だ。今日の君のやり方は“直す”だった。悪くない」
塔を下ると、村人が拍手をして迎えてくれた。老人が近づき、セリスの手を取る。
「風にありがとうを言いたいのは初めてじゃ。あんた、何者だ?」
「ただの旅人です」セリスは照れたように首を振る。
「旅人でも、ありがとうは受け取るよ」老人は微笑んだ。
夕方、宿の裏庭で皆が乾いた体を休めていると、βが低く報告した。
《遠方より低周波構文応答。深域、山岳帯方向。反応は増加傾向。》
「来たか」ユウリが背筋を伸ばす。
「次はもっと古いものの気配ですね」とリアナ。
「うん。旧文明遺構が本格的に反応し始めた」セリスも眉を寄せる。だが、その瞳には決意が宿っていた。
ティアが伸びをして笑う。
「よーし、次は何が飛び出してもボクが焼き尽くす!」
「ほどほどにな」ユウリが苦笑する。
ミナがふわりと尻尾を揺らす。
「ミナも、みんなの後ろを走るよ」
夕暮れの風が、彼らの肩をそっと押した。塔で聞いた声の余韻が、誰の胸の中にも小さな灯をともしていた。
こうして小さな日常の事件は、一行の信頼と結束を確かにした。遠くで鼓動する古の機構の反応は、やがて彼らを大きな戦いへと導くだろう――だが今は、仲間の笑顔が何より確かな証だった。




