第74話「港の街リベール ― 新しい風 ―」
潮の匂いが風に乗って流れてくる。
グランテールを出て三日目、ユウリたちは港町リベールへたどり着いた。
海鳥の鳴き声、行き交う人々の声、香ばしい魚の焼ける匂い――街全体が賑わいの渦の中にある。
ティアが目を輝かせて叫んだ。
「うわぁ、海だっ! 見て主様、あれ全部水なんでしょ! 飲める?」
「飲むな。塩で死ぬぞ」
「えぇーっ!?」
隣でリアナが静かに微笑む。
「ティアさん、海は神聖な場所です。命の水ですが、試飲はおすすめしません」
「うぅ……海のくせにケチ……」
そのやり取りに、ミナがくすっと笑った。
「主様、ボクたち、宿に行く前に市場行っていい?」
「どうせ止めても行くだろ。集合は鐘が三つ鳴ったらだ」
「やったっ!」
二人は尻尾を揺らしながら駆け出した。
残されたユウリとリアナ、そしてセリスはゆっくりと石畳を歩き出す。
セリスは初めて見る“人の街”に、しばらく言葉を失っていた。
屋台で笑う親子、店先で値切り交渉をする商人、喧嘩してすぐ仲直りする若者たち――その一つ一つに、千年の時を生きてきた彼女の目が吸い寄せられる。
「……息づいていますね。命の音が、こんなに近くにあるなんて」
ユウリは笑う。
「神秘の森より、こっちの方が落ち着かないか?」
「落ち着かない、けれど……嫌じゃありません」
セリスの髪が潮風に揺れ、翡翠の瞳が柔らかく光った。
◇◇◇
市場は、色と声と匂いの洪水だった。
香草の束、焼き貝、絵の具、珍しい果実――どれもがこの街の活気を象徴している。
ティアは串焼きを頬張り、口をいっぱいにして叫んだ。
「うまっ……! 主様、これ、たぶん神の味っ!」
「神は屋台を出さない」
「じゃあ人の奇跡だね!」
ミナは反対側で綿あめを持っていた。
「主様、これ、ふわふわしてて食べる雲みたいなの!」
「砂糖の塊だ。それ以上食べたら魂が飛ぶぞ」
「きゅぅ……じゃあティアにあげるの」
「やったぁ!」
そのやりとりを見ていたセリスが、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……人はどうして、こんなに楽しそうに食べるのでしょうね」
「美味しいからだろ」
ユウリが言うと、セリスは首を傾げる。
「千年生きても、まだ知らない感情があります。味覚だけで心が満たされるなんて、奇跡です」
「お前も食べてみたらいい」
「……少しだけ」
セリスは小さく串を取って、そっと口に運んだ。
一瞬の沈黙。
そして――
「……あたたかい」
「それは焼いてあるからな」
「そうではなくて」
セリスは胸に手を当てた。
「心が、あたたかいんです」
ユウリは少しだけ視線を逸らした。
「そうか。なら、それが人の味だ」
◇◇◇
そのとき、喧噪の向こうで悲鳴が上がった。
「泥棒だ! 財布を盗まれた!」
人々の視線が一斉に向く。
小さな影が市場の人混みを縫うように走り抜けた。
少年だった。
まだ十にも満たない、小柄な人間の子。
その手には革の財布。
「主様、追う?」
「行け」
ミナが地を蹴った。
狐のような軽さで屋台の間を抜け、次の瞬間には少年の前へ飛び出していた。
「止まって!」
「くっ……離せよっ!」
少年は手を振りほどこうとするが、ミナの身軽な動きに敵わない。
ティアが横から回り込み、少年の逃げ道を塞いだ。
「やめときな。悪いことは悪いって、ちゃんと教えてあげる」
「うるさい! 俺は……俺は、腹が減ってただけなんだ!」
その声を聞いたセリスが、静かに近づいた。
薄緑の髪が光を受けて揺れる。
「……あなたの心は、凍ってはいませんね」
少年が目を見開く。
セリスは膝をつき、目線を合わせた。
「人は弱い。だからこそ、誰かに差し出す手を選べる。奪う手じゃなくて」
「でも……俺、もう誰も信じないって……」
「信じなくてもいい。ただ、“許す”ことを知ってほしい」
セリスの指先が少年の頭に触れた瞬間、淡い風が吹いた。
それは魔法でも、威圧でもない。
ただ、心を撫でるような優しい風。
「……ごめんなさい」
少年は財布を差し出し、涙を拭った。
ティアが肩をすくめる。
「すごいね、セリス。言葉だけで止めるなんて」
「昔、戦争を止められなかったことがあります。だから、せめて一人の涙くらいは」
その声に、リアナが穏やかに頷いた。
「……あなたの言葉は、祈りのようです」
◇◇◇
夕暮れ。
港の夕陽が赤く海面を染める。
市場での騒動も落ち着き、宿屋の二階からは街の音が遠くに聞こえる。
ティアとミナはすでに布団に倒れ込んで寝息を立てていた。
リアナは窓際で祈りの糸を整え、静かに目を閉じている。
ユウリとセリスだけが、テラスに出て夜風を受けていた。
「……あの少年、きっとまた笑えますね」
「ああ。だが、次に会ったときに笑っていられるかは、街次第だ」
ユウリは港の灯を眺めた。
潮の匂い、揺れる灯籠、遠くの波の音。
そのすべてが、グランテールの夜とは違う温もりを持っている。
「セリス、お前はこの旅で何を見たい?」
「人を知りたいです」
「人を?」
「千年も生きてきて、私は“生きる”ことを理解していませんでした。あなたたちは、今を刻むように笑う。その瞬間を、私も感じてみたい」
「……なら、いい旅になる」
セリスは夜空を見上げ、静かに微笑んだ。
「風が、優しいです」
潮風が二人の間を抜け、遠くの灯を揺らした。
その光が海へ溶けていく。
――そして、夜がゆっくりと街を包み込む。




