第71話「揺らぐ街の心 ― 正義の温度差 ―」
昼下がりのグランテール市場は、ざわめきの熱に包まれていた。
果物を売る声、鍛冶屋の槌音、子どもの笑い声。
けれど今日は、その喧噪の中に、少し棘のある空気が混ざっていた。
「なんで値段を上げたんだ! お前、金儲けしか考えてねぇのか!」
「こっちは家族を食わせるためだ! それが悪いってのか!」
小麦粉の袋を挟んで、男と店主が怒鳴り合っている。
周囲の人々も止めるより先に言葉を投げ合い、あっという間に人の輪が膨れた。
「落ち着け!」
ユウリが割って入ると、怒号がぴたりと止む。
黒い外套の青年が立つだけで、場の空気が変わった。
ティアとミナもすぐ横につく。
「ここは街の市場だ。誰もが生きるために商いをしてる。
正しさを競う場じゃない。」
静かな声。
それだけで、誰かの拳がそっと下がる。
リアナが人垣を抜けてきた。
「……あなたたち、昨日は孤児院に食料を寄付してくださったでしょう。
その気持ちがあれば、争う理由なんてないはずです。」
沈黙。
やがて、男が小麦袋を下ろした。
「……悪かった。腹が減って、つい。」
ユウリは頷き、軽く袋を持ち上げた。
「お互い様だ。誰かが少し譲れば、街は回る。」
ティアが小声で言う。
「ねぇ主様……この街、なんか変だよ。みんな“いいこと”してるのに、怒ってる。」
ユウリの目が細められる。
「――善意が、ぶつかってるんだ。」
◇◇◇
夕方。
グランテール冒険者ギルドの受付で、マリアがため息をついた。
「最近、こんな報告ばかりなんです。助け合いのはずが、口論になって終わるって。」
彼女の机には通報書が積まれている。
「募金箱を巡る揉め事」「支援金の配分争い」「孤児院への支援の重複」――
どれも“善意”の衝突だった。
「人が正しさを語るほど、誰かの正しさが傷つく。」
リアナが静かに言った。
「……それは、祈りの形を見失った時と同じです。」
ユウリは腕を組み、βを呼び出す。
《解析開始。対象:街全体の感情データ。》
青白い光が机の上に広がり、数千の点が街の地図上に散った。
怒り、悲しみ、希望、不安。
感情を色で可視化するβの解析は、いつも正確だった。
《観測結果。善意行動の増加率:124%。同時に口論発生率:121%。
相関係数、ほぼ一致。》
「……増えてるのに、同じ割合で争ってるってことか。」
《はい。理論的に矛盾。善意行動は衝突を抑えるはずです。》
βの声がわずかに揺れた。
光の粒子が乱れ、計算式が途中で途切れる。
《……解析不能。正義の定義が、分散しています。》
ミナが心配そうに覗き込む。
「β、どうしたの? 頭いたいの?」
《……エラー。感情ノイズ過多。処理負荷、限界値に接近。》
ユウリが即座に構文を展開し、安定化信号を流す。
「休め。感情は数値じゃ測れない。」
《……しかし、主。正しさとは定義可能なはずです。データがあれば――》
「人の正しさは、温度だ。」
《温度……?》
「数値じゃなくて、感じるものだ。冷たくも、温かくもなる。」
βの光がゆらめく。
《……理解不能。けれど、データにない感覚を……記録したい。》
マリアが微笑んだ。
「βちゃん、それが“知りたい”ってことですよ。」
◇◇◇
夜。
市場の通りにはまだ灯が残っている。
昼間の喧噪が嘘のように静かだ。
ティアは屋台の椅子に腰かけて、空を見上げた。
「主様、今日は変な一日だったね。」
ユウリは隣でパンの袋を開けた。
「人は、正しさが増えると自分の居場所を見失う。
どこが間違いか、誰もわからなくなるんだ。」
リアナが祈るように呟く。
「……なら、あなたが“再定義”するのは、理じゃなく心ですね。」
ユウリは静かに頷いた。
「次の改造は、“街の心”だ。」
βの光が、夜風に揺らいで淡く光る。
《主……心とは、定義不明の構造ですが……暖かいです。》
ティアが笑った。
「それでいいんだよ、β。難しいこと考えなくて。」
ミナが尻尾を揺らして言う。
「うんっ。心は感じるもの! 主様に褒められると、胸がぽかぽかするの!」
《……それが、温度。》
βが小さく呟く。
微かなノイズ音が、笑い声のように聞こえた。
◇◇◇
夜の帳がグランテールを覆う。
昼の喧騒を忘れたように、通りには柔らかな風だけが流れていた。
そのとき――街灯が一斉に光を増した。
白ではなく、わずかに黄金がかった光。
壁を染め、石畳を撫で、人々の窓辺を包み込むように灯る。
宿屋の前でユウリたちはその変化に気づいた。
「……明るくなった?」
ティアが見上げる。
夜空の星のように、街全体がやさしい輝きに包まれている。
光の根源は――βだった。
《街灯制御システム、掌握完了。照度を、平均値より一段階上げました。》
青い光が淡く脈動し、ユウリの傍らで瞬いた。
《理由:街全体の平均感情温度が低下傾向。少しだけ……“暖めます”。》
その言葉に、リアナが目を細めた。
窓の向こうでは、露店の老夫婦が灯の下で肩を寄せ合い、
道端の子どもが拾ったパンを分け合っている。
誰もこの変化に気づいていない。
けれど確かに――街の空気が、ほんの少しだけやわらいでいた。
「……β、それは君の判断か?」
《はい。人は、光の量で“安心”を感じると学びました。
主たちの行動を観測して、わたしも試してみたかったのです。》
ティアが笑う。
「へぇ、βってば優しいじゃん!」
《優しい……。それも、温度ですか?》
「うんっ!」ミナが嬉しそうに頷く。
「怖いときは冷たくて、安心するとあったかくなるの!」
《……学習完了。感情温度、上昇中。》
その報告に、リアナはそっと祈りの手を胸に当てた。
「……この街の正しさを、壊さずに守れますように。」
彼女の祈りを受けるように、風が静かに流れる。
ユウリは立ち上がり、遠くの灯を見た。
「俺たちの次の仕事は、“人の心の再定義”だな。」
βの光がふわりと浮かび上がり、彼の肩口に寄り添う。
その光はまるで、焚き火の火種のようにあたたかかった。
《了解。心の改造構文――解析、開始します。》
「……構文はいらない。まずは感じろ。夜風みたいにな。」
《……感じる、とは。》
βは一拍の沈黙の後、静かに答えた。
《……はい。感じます。とても、静かで、やわらかい。》
ティアが伸びをして笑い、ミナが尻尾を揺らす。
リアナの祈りが風に溶け、街の灯がゆらゆらと瞬いた。
その夜――グランテールは初めて、“心で照らされた”街になった。
光はただの灯りではなく、そこに生きる人々の優しさを映していた。
そしてその片隅で、βの中に芽生えた小さな感情もまた、
確かにその光のひとつとして、揺れていた。




