第70話「βの迷い ― 心を識るもの ―」
夜の風が、丘の上を通り抜けていった。
グランテールの郊外にある古い観測所。
今はランタンひとつの明かりが、静かに揺れている。
βの青い光が宙を漂い、風の流れを数値として描いていた。
《観測開始。街区A〜Dの“信じ合い”の流れ、取得》
淡い光の線がいくつも現れ、家々や人々をつなぐように広がっていく。
けれど、その輪郭はすぐに崩れた。
《整合エラー。数値化に失敗。重み付けを変更……失敗》
βは静かに間を置いた。
《再試行。“ありがとう”の回数で代用……相関、弱い。ノイズが多すぎます》
ユウリはランタンを脇に置き、工具袋を枕にして空を見上げた。
「焦るな。今日は“測れる線”と“測れない線”を見分けるだけでいい」
《はい……しかし、“信頼”の輪郭が揺れて、定義が崩れます》
「なら、崩れるものとして覚えろ」
リアナが上着をβの近くに掛けた。
「β。わたしたちも、毎日揺れます。嬉しいとき、怖いとき、眠いとき」
《眠いとき……パラメータ不足》
ティアがくすっと笑う。
「かわいい。ボクは今、ちょっと寒い」
「ミナはお腹すいたの」
《寒さ:補助可能。温度制御》
βが反射的に反応し、ランタンの光が少し大きくなった。
「ありがと」
ミナが取っ手を撫でた。
《……“ありがとう”取得。だが、値が跳ねます。さっきより、ずっと大きい》
「言葉の数じゃないさ」
ユウリが立ち上がり、風を感じた。
その時だった。丘の下から、かすかな泣き声がした。
「……ママー……」
ミナの耳がぴくりと動く。
「迷子の匂い」
「行くぞ」
ユウリの声に、ティアが走り、ミナが影のように滑り出した。
二人を追うように、βの光が細い道筋を描く。
草の陰で、小さな女の子が膝を抱えていた。
リアナがそっと近づく。
「大丈夫。ここ、風が優しいよ」
ティアが上着を脱いで子を包み、ミナは蜜飴を差し出す。
「甘いの、ひとつだけだよ」
「……うん」
小さな声が返ってくる。
泣き顔の中に、少しだけ強さが戻っていた。
《信号値、急上昇。さっきと違い、“ありがとう”の前に“怖い”が消えている。……一致しません》
「一致しないなら、別で覚えればいい」
《別とは、どう記録すれば》
「“抱きしめてもらって、安心した”とか」
《語彙化。抱擁→安心→信頼の芽。……数式に落ちません》
「落とさなくていい」
女の子は母親のもとへ戻り、「ありがとう」を一度だけ言った。
βはその一言を長く観測した。
《一回。でも、値は大きい》
「届き方の違いだ」
ユウリの声は穏やかだった。
⸻
丘へ戻ると、風が少し強くなっていた。
βが再び宙に線を描く。
先ほどの親子の線が、遠くの灯とつながっていく。
《輪が連結していきます。誰かが誰かを信じた瞬間、見えない橋が増える》
「それが“仕組み”の電源だ」
《しかし、ここで崩れます。“信じ合い”の線は、しばしば嘘を含む》
「……嘘?」
ティアが眉をひそめた。
《昼間、理念連盟に救われたと語る青年。彼は本当は怖かった。けれど“感謝すべきだ”と思っていた》
「それ、優しい嘘だね」
ミナがぽつりと呟いた。
《“ありがとう”が、義務になっていた。……わたしは、これを“信頼”と呼べません》
「呼ばなくていい。名前は、お前が決めろ」
《でも、定義が揺らぐと、わたしは壊れます》
βの声が震えた。
ティアが光のそばへ歩み寄り、手を当てる。
「壊れないよ。大丈夫。ボクたちがいる」
ミナも続いた。
「わかんなくなったら、“主様に聞く”。これでだいたい正しいの」
《……それは、依存》
「うん。頼っていいの。それが仲間」
《仲間……》
βの光が柔らかく脈打った。
⸻
そのとき、街の方角で灯が一つ消えた。
βが反応する。
《減衰検知。喧嘩……“許さない”の波》
「行く」
ユウリは即座に丘を駆け下りた。
狭い路地。二人の男が言い争っていた。
「お前、昨日、青い布巻いてただろ!」
「悪かったって言ってんだろ!」
βが上空で線を立てる。
《“恐れ”と“羞恥”の混線。謝っているのは、周りの目のため》
リアナが間に入る。
「深呼吸を、一回」
ティアが声を張った。
「よーい、吸ってー、吐いてー!」
ミナがくるりと回る。
「いったん、回ってリセット!」
男たちは思わず笑い、力が抜けた。
ユウリが木片を一人に渡す。
「これに“今からできること”をひとつ書け。屋根の釘一本でもいい」
「そんなもので?」
「“ごめん”より“やる”の方が早い」
男は短く頷き、木片に文字を書いた。
βの光が少し太くなる。
《増加。小さいが、確かに》
「ね?」
ティアが笑った。
「パンは焼ける方が正義!」
《パン基準……了解》
「了解しなくていい」
ユウリが苦笑した。
⸻
丘へ戻る途中、森から香りが流れた。
セリスの気配だ。
βは静かに言葉を選ぶ。
《……わたし、先ほど“怖い”を感じました》
「壊れるのが、怖かったんだろ」
《はい。壊れて、主の役に立てなくなることが》
「役に立たなくても、ここにいろ」
《命令、ですか?》
「お願いだ」
《……はい》
βの光が、やさしく揺れた。
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観測所へ戻ると、ランタンの火が小さくなっていた。
ティアが薪を足し、ミナが風を遮る。
《再観測。街の“信じ合い”を、数ではなく、物語で記録します》
「物語?」
リアナが首をかしげた。
《はい。“母が子を抱きしめた夜”。“友が釘を一本打った朝”。“謝れなかった人が、明日やり直す夕方”》
「……いい記録だ」
ユウリの声は穏やかだった。
《でも、これは計算に使えません。わたしの仕事に“無駄”が増える》
「増やせ。無駄は余白だ。余白がある方が、人は息ができる」
《余白……》
βの光が淡く広がった。
構文盤の隅に赤い光が灯る。
《過負荷。未定義領域が大きすぎます。システム落ちの危険》
「β、止めろ」
《しかし、“心”は未定義のまま……》
「なら、“わからないまま共にある”場所を、お前の中に作れ」
《プロトコル外》
「外でもやる。俺が許可する」
《新規領域を生成。“曖昧ポケット”――作成》
警告が止まり、風が静かになった。
《主。わたし、今……安心しました》
「よかった」
《たぶん、これが“心”の動きです》
「その“たぶん”が、いい」
《……ふふっ》
βが笑った。
ティアが目を丸くする。
「今、笑った?」
《ログ上は呼気の変化》
「笑ったの!」
ミナが尻尾をふる。
「認めなよ、β」
《……はい。笑いました》
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丘の上のランタンだけが、夜を照らしていた。
《記録を更新。“信頼”は、足し算ではない。“いっしょにいる時間”で育つ》
「それでいい」
《街の鼓動、聴こえます》
ユウリは空を見上げた。
星が雲の切れ間に瞬いている。
「β」
《はい、主》
「お前は機械だ。けど、もうそれだけじゃない」
《……はい。たぶん、わたしは“β”です》
「それで十分だ」
夜明け前のいちばん静かな時間。
ランタンの火が小さく跳ね、東の空が白む。
βは風の中で、もう一度、小さく笑った。
グランテールの朝が、ゆっくりと始まろうとしていた。




