第68話「セリス・フィオリア ― 風の目覚め ―」
市場騒動の翌朝。
グランテールの街は、まるで深呼吸でもしたかのように静かだった。
昨日まで熱に浮かされていた人々も、今は普段の顔で働いている。
風がやさしく屋根瓦を撫で、遠くで鐘が鳴った。
ユウリたちは街の外れ、小高い丘の上にいた。
修復作業を終えたばかりの風車が、ゆっくりと回る。
「……よく回るな」
ユウリがつぶやくと、ティアが胸を張った。
「当たり前っ! ボクと主様が組んで直したんだもん!」
「主様が九割、ティアが一割でしょ?」
ミナの冷静な突っ込みに、ティアはふくれた。
「なによー! 火力の調整くらいちゃんとしたもん!」
「“火”で風車直すのがおかしいのよ……」
リアナが笑う。その声が、風に溶けた。
βが静かに告げる。
《観測報告:理念連盟、活動縮小を確認。構文共鳴信号の残存率、7%》
「やっと落ち着いたか」
「うん……でも、あの青い布、まだ街のあちこちに残ってた」
ミナが呟き、ユウリは小さく頷いた。
「理想ってのは、形を壊しても風みたいに残る。……だからこそ、再定義がいる」
そう言いながら、ユウリは丘の向こう――森の方角へ目を向けた。
どこか、風の流れがおかしい。
まるで空気の中に“別の呼吸”が混ざっているような、微細な違和感。
その森の奥で、少女は目を覚ましていた。
光の粒子が漂う樹間。
風が葉を揺らし、陽が差し込む。
少女の髪が、その光を受けて翡翠のように輝いた。
「……長く眠っていた、のね」
セリス・フィオリア。
エルフの古き森から遠く離れた異郷で、
彼女は“風の囁き”に導かれていた。
かつて世界の理を見守る存在だったが、今は静かに人の世界を見ている。
人の争いも、涙も、祈りも――。
それを眺めるたび、胸の奥が、妙にざわめいた。
「風は、嘘をつかない。……けれど、人の声は、揺れる」
彼女の耳に、かすかな残響が届いた。
――「理想は、ひとつに統一されねばならない!」
昨日、市場で響いた“理念連盟”の叫びの残滓だ。
その波が風に乗って、森まで届いていた。
「……愚かだけど、痛いほどまっすぐ」
セリスはそっと目を閉じた。
「同じ風を感じるのに、なぜ争うのかしら」
頬に触れた風が、どこか懐かしいぬくもりを運んでくる。
――それは、人の世界にいる“改造者”の気配だった。
一方、丘の上。
ユウリが風の流れを読むように目を細めた。
「……この風、ただの自然じゃないな」
「風が、しゃべってる?」
ティアが首を傾げる。
リアナは静かに目を閉じた。
「……精霊の波です。とても古い風の……呼吸」
「精霊?」
「はい。おそらく、この地に眠っていた“風の巫女”が、目を覚ました」
その名を聞いて、ユウリの脳裏に小さな構文ログが走る。
《観測対象:精霊波長一致率89%。識別名候補――“セリス・フィオリア”》
「……セリス?」
その響きに、βの光が小さく震えた。
森の中。
セリスは立ち上がり、手のひらに風を集める。
緑の光が揺れ、薄い魔法陣が浮かぶ。
「名を呼ばれた気がする……。誰?」
彼女の周囲に、風の粒子が踊る。
遠く離れた丘の上、ユウリの足元にも同じ光が現れた。
「構文反応!? β、位置特定!」
《座標確定――距離一キロ南東、森の中》
「行くぞ」
「了解、主様っ!」
ティアが跳び、ミナが続く。リアナも祈りの紋章を光らせ、風の道を繋げた。
森を抜けた瞬間、世界が静まった。
鳥の声も、葉の音も止まり、ただ風だけが流れる。
その中心に、少女が立っていた。
透き通るような緑髪、金と黄緑が混ざる瞳。
白と翠の装束を纏い、裸足で大地を感じている。
セリス・フィオリア――風の巫女。
彼女の瞳が、ユウリたちを見つめた。
「あなたたちが……この風を変えた人?」
「変えた、というより、壊れたところを“直した”だけだ」
ユウリが穏やかに返す。
セリスの表情がわずかに緩む。
「……“直す”。ふふ、それは懐かしい言葉ね」
リアナが一歩前に出た。
「あなたが、この森の精霊ですか」
「私は……風の記録。長い時間を見てきただけ」
セリスはゆっくりと髪を撫で、続けた。
「でもね、あなたたちの“音”は違った。壊すためじゃなく、繋ぐための音」
その声は、まるで風の歌のように優しかった。
だが次の瞬間、空気が震えた。
《警告:残留理念信号、森の結界内で再活性化!》
βの警告音が走る。
「……くそ、まだ残ってたか」
木々の間から、青い光の柱が立ち上がった。
昨日市場で使われた“共鳴布”が、森に流れ着き、残響を放っている。
その波がセリスの周囲に絡みついた。
「っ……これは、人の“怒り”の音……!」
風が荒れる。樹々が揺れ、渦が巻く。
「主様、風が暴れてるっ!」
「β、反共鳴構文展開!」
《応答。展開率60%……外部要因が強すぎます!》
ユウリがセリスに叫ぶ。
「セリス! あんたが風を抑えろ!」
「……できない! これは、人の心が生んだ嵐!」
「なら、俺が再定義する!」
ユウリが手を翳し、構文を走らせた。
だが、その瞬間――セリスの瞳が光を宿した。
「違う……これは、“わたしの風”として導かなきゃ」
彼女の足元に風紋が広がる。
風が音になり、音が歌になる。
その旋律が、嵐を包み込んだ。
ユウリの構文光と、セリスの風が交差する。
光と風が混じり合い、やがてひとつの輪を描いた。
《共鳴値上昇。魂リンク形成開始――》
「……β、記録を止めろ」
《了解》
ユウリが呟く。
「これが……“風の目覚め”か」
やがて風は静まり、森に柔らかな光が差し込んだ。
セリスは膝をつき、深く息を吐く。
「……ありがとう。あなたの声が、届いた」
ユウリは手を差し出した。
「人も風も、壊れたら直せばいい。それだけだ」
セリスはその手を見つめ、微笑んだ。
「……あなたの“理”、少しだけ好きになれそう」
風が再び吹き、緑の髪が揺れる。
その香りは、朝露と同じ――新しい始まりの匂いだった。




