第54話「孤児院の朝 ― 祈りと再生 ―」
朝のグランテールは、やさしい匂いがする。
宿の窓を開ければ、パンを焼く香りと、井戸の水を汲む音。昨日までの騒ぎは確かにあったのに、街は何事もなかったみたいに“いつもの朝”を戻してくる。
ユウリたちは宿で簡単に身支度を済ませると、パン屋で焼きたてを紙袋に詰めてもらい、街はずれの孤児院《聖燐の家》へ向かった。石畳の道を抜けると白い壁の建物が朝日にきらめき、庭の洗濯物が風に揺れている。
「……静かだな」
「うん。いい朝」
ティアが伸びをして、尻尾――いや、今は外套の下に仕舞っている――を嬉しそうに揺らした。ミナは袋の口から顔を覗かせ、パンの香りを胸いっぱいに吸い込む。
「いい匂い……主様、ミナ、こういう朝、好き」
「そうか。じゃあ、たくさん持ってきて正解だな」
門を叩くより早く、子どもたちの声が中から押し寄せてきた。
「ユウリお兄ちゃんだ!」「ティアねぇ! ミナねぇも!」
庭に駆け込むと、直径の小さい輪になってミナを取り囲み、白い髪に触っては「ふわふわだ」と笑う。ミナは最初こそ肩をすくめたが、すぐに膝をついて目線を合わせた。
「押し合いっこ、だめ。順番ね」
「はーい!」
尻尾のあたりで子どもがもぞもぞし始めるのを、ミナは器用にかわす。
「そこはだめなの。くすぐったいの!」
「皆さん、おはようございます」
シスター・マリネがバスケットを抱えて出てくる。目の下の隈は薄く、昨夜はよく眠れたのだろう。
「昨日、街の広場で通達を見ました。……ありがとうございます」
「礼は結構です。手を貸してくれたのは、街の人たちと、ここにいる子どもたちだから」
ユウリが紙袋を掲げると、マリネは小さく目を見開いて笑った。
「まあ、パンまで。今日の朝食が少し豪華になりますね」
庭に簡易のテーブルを並べ、皆でパンを割く。ティアは蜂蜜の壺を見つけると、目を輝かせた。
「ご主人様、これ塗っていい?」
「塗りすぎるなよ。パンが溺れる」
「え、パンって泳げるの?」
「泳がない」
笑いが一度、ほんの少し大きく弾ける。
リアナは院内の小さな礼拝室から戻り、朝露の残る庭に立って皆を眺めた。祈りを終えた顔は穏やかで、肩の緊張が抜けている。
「ユウリ様。……いい朝ですね」
「ああ。久しぶりに、何も壊さなくていい朝だ」
パンを配り終えると、自然に小さな作業が始まった。ミナは年少の子の靴紐を結び、ティアは背の高い物干し竿に洗濯物を掛けなおす。リアナは井戸端で水の桶を受け取り、マリネと並んで器具を拭く。ユウリは庭の端にしゃがみ込み、折れた柵の金具を眺めた。
「ユウリ、直せる?」
リアナが声をかける。
「金具の噛み合わせが甘い。強度が足りないせいで荷重が一点に集まってる」
「つまり?」
「ここを少し削って、別の材で受けを増やす。――《少しだけ、いい工具に変える》」
手元に青い光が走り、金具の表面がさらりと均一になる。カチ、と気持ちの良い音で柵ははまり、ぐらつきが消えた。
「……助かります」
「金槌があれば誰でもできる程度だよ。俺がやるのは“最初の一回だけ”」
そう言って、ユウリは手を止めた。
「繰り返しは人の仕事だ。ここはこの街のものだから」
マリネは小さく目を伏せ、微笑んだ。
「ええ。繰り返すことを、怖がらないようにします」
庭の片隅で、ミナがユウリの袖をつつく。
「ねぇ主様」
「どうした」
「ミナ、昨日、男の人に怒らないでいられた。……主様に、“正しく壊す”って言われたから、怖くても、できた」
「偉かったな」
「うん。だから……主様を“主様”って呼ぶの、やめられないの。助けてもらったからじゃなくて、心が迷子にならないように、呼びたいの」
「……そのうち、好きに呼べばいい」
「好きに、って?」
「頼りたい時は“主様”、ふざけたい時は“ユウリ”、内緒で甘えたい時は――」
「きゅっ……!」
ミナの耳が真っ赤になり、ティアが横からずいっと割り込む。
「ちょっと待った! ボクにもその呼び方メニューちょうだい!」
「お前はとりあえず“ご主人様”をちゃんと使い分けろ。戦闘中に伸ばすな」
「えー、“ごしゅじんさまぁ〜”は勢いが大事なの!」
「勢いで結界に突撃するやつが何言ってる」
庭の笑いがまたひとつ膨らんで、壁を越えて通りに流れていく。門の外から顔を出した近所の老夫婦が、籠いっぱいの野菜を差し入れてくれた。
「なくなったらいつでも取りにおいで。孫が増えたみたいでねぇ」
「ありがとうございます」
リアナが深く頭を下げる。老夫婦は照れたように笑い、すぐ日常の歩調で去っていった。誇示も見返りもない、ただの手助け。そういうものが、街にはちゃんと残っている。
食事が一段落すると、ミナは戸口に腰をかけて朝日を見た。靴の先で土を小さく崩しながら、ぽつりと言う。
「……ミナ、昨日まで、この朝がこわかったの。朝が来ると、また鎖の音がしたから。でも今日は、パンの匂いしかしない」
横に腰を下ろしたユウリが、軽く頷く。
「鎖の音は、もうここでは鳴らない」
「うん。鳴らないね」
「鳴らそうとするやつがいたら?」
「ミナが走って、みんなが来て、止めるの」
「それでいい」
遠くで鐘が鳴る。
子どもたちが合図のように立ち上がり、庭の掃除を始めた。ティアはほうきを肩に担ぎ、やる気満々の顔で駆け回る。
「掃除は任せて! 火は使わないから!」
「当たり前だ」
「えー、ちょっとだけ炙ると落ち葉って一気に片付く――」
「だめだ」
「ですよね!」
リアナは井戸端で手を拭きながら、ユウリの隣に立った。
「……街の人が、また寄付を持ってきてくれるようになりました。昨日まで怯えていた人たちが、今日は普通に笑っている」
「“普通に”ってのが、一番難しい」
「ええ。だから、あなたの仕事は大きく見えるのに、やっていることはとても小さい。壊れた金具をひとつ直して、パンを一袋持って来て、門を二回ノックする……そういう積み重ね」
「でかいことは当分いい。俺はこの街の“手すり”を少し頑丈にしとく」
「手すり?」
「転ばないように掴める場所。掴んだら立ち上がれる」
リアナは少しだけ笑って、前を向いた。子どもたちが縄跳びをしている。飛ぶたびに笑い声が地面へ落ちて、また跳ね返って空へ上がる。
「……風が、笑いましたね」
「そうだな」
マリネがテラスから小声で呼ぶ。
「ユウリさん、少しよろしいですか」
小部屋に通されると、帳面と小袋が机に並べてあった。
「皆さんからの寄付と、昨夜の分の整理です。あと、これ……」
マリネが包みを差し出す。そこには、ぎこちない刺繍の巾着が三つ。
「子どもたちが、皆さんに“お守り”を作りました。糸がつれているところもありますが……気持ちだけ」
「もらっておきます。ありがとな」
巾着を受け取ると、糸の端っこがぴょんと跳ねて、ティアとミナが同時に目を丸くした。
「かわいい!」「かわいいの!」
「あとで名前縫い直しておく。……ベータ、糸の厚みはこのままでいい」
《了解。縫い直し補助モード、準備完了》
「声に出すな。ここでは普通に針と糸を使う」
わずかな沈黙ののち、ベータが控えめに囁いた。
《主。観測報告》
「どうぞ」
《赤鎖の本部網に、昨夜から別ルートの通信。差出元は中央の貴族街区。内容は暗号化済みですが、“再編”の単語を検出》
ユウリは頬杖を外した。
「こっちで潰した分、向こうが焦って動き出したか」
《確率78%。加えて、騎士団清廉派から非公式の連絡。証拠の受領と、内部調査の開始》
「わかった。しばらくは表に出ない。ここの平穏を崩すほど急ぐ話でもない」
《了解》
部屋を出ると、昼前の陽射しが庭いっぱいに広がっていた。縄跳びは今度は二重跳びになっていて、ティアが本気で挑んで子どもに負けている。
「ずるい! 今の三回跳んだ!」
「ずるくない! ティアねぇが重いだけ!」
「誰が重いだって!?」
「はいはい、掃除の続き」
ユウリが手を叩くと、わーっと笑いが散って、ほうきとちり取りがもう一度動き出した。
ミナが駆け寄ってきて、巾着を胸に当てる。
「主様、見て。ミナの“お守り”、ハートついてる」
「よかったな」
「うん。……ミナ、ここで“ただの女の子”してていい?」
「今日くらいは、ずっとそうしてろ」
「じゃあ、そうするの!」
ミナは満足そうに頷いて、子どもたちと一緒に小さな畑へ走っていった。芽がちょこんと並んでいて、彼女の指先がそれを撫でるように避けていく。踏まない。壊さない。育つのを待つ。
リアナが横に並び、静かに言った。
「……あなたが直す世界は、やっぱり温かいです」
「俺は少し手を貸しただけだ。温かくするのは、こういう場所にいる人たちだよ」
「それでも、きっかけは必要です」
「じゃあ――きっかけ係で」
ティアが畑のほうから手を振った。
「ご主人様ー! 昼になったら市場行こ! 甘いやつ!」
「はいはい。まずは片付けてからな」
「はーい!」
鐘がまたひとつ鳴る。
庭の掃除が終わり、バケツの水がきらきら揺れた。
マリネは「また来てくださいね」と手を振り、子どもたちは口いっぱいに笑顔を作って見送ってくれる。
門を出て、石畳を歩き始める。
ユウリがふと振り返ると、白い壁の上で洗濯物が風に揺れた。
それは旗でも標でもなく、ただの布。
けれど、ああいう布が、街を明るくする。
「……昼は何がいい?」
「肉!」
「甘いの!」
「消化にやさしいものを」
「三者三様だな。順番に行くか」
「やった!」
そんな他愛もないやり取りの中で、日差しが少しだけ強くなった。
足取りは軽い。
予定も山ほどある。
けれど、今はそれでいい。
今日も一日が始まる。
そして明日も、きっと誰かのために動くんだろう。
――そのくらいの気持ちで、十分だ。




