第52話「ブタ貴族の宴」
――グランテール西区。
貴族街の一角にそびえる屋敷群は、夜になると別世界のように輝く。
民のためと称して建てられたはずの建築群が、今では虚飾と欲望の象徴だった。
その中でも、ひときわ異様な光を放つ屋敷がある。
グルム男爵邸。
街の表では孤児院への寄付で知られる慈善貴族。
しかし、裏では“赤鎖”の主要ルートを牛耳る男として、闇商人たちの間で恐れられていた。
「……これが、例の屋敷か」
夜の屋根上。
ユウリは望遠ゴーグルを通して屋敷を見下ろしていた。
煌びやかな庭園、その裏に並ぶ荷車。
そして馬車の中には――檻。
《観測結果:搬入ルート確認。護衛兵12名、魔力反応6。地下階層に生体反応複数。》
βの淡い光が、無機質な報告を流す。
リアナが祈るように手を組んだ。
「……子どもたちの気配ね。神の加護が、まだ届いていない場所……」
ティアが拳を鳴らした。
「主様、もう突っ込もう! 悪い奴は全部燃やせば――」
「まだだ」
ユウリは静かに首を振る。
「燃やすのは簡単だ。でも、それじゃ街は何も変わらない」
彼の目は、完全に“人の世界の構造”を見据えていた。
力で潰すだけでは、また同じ連中が湧くだけ――
根を断つには、“証拠”と“構造改造”が必要だった。
◇◇◇
一方、屋敷内部。
金と香が混ざる広間に、丸々と肥えた男が座っていた。
豚に似た鼻、油のように光る額。
男爵グルム・バルドリエル。
「ぶひひ……これでまた、孤児院の“寄付”も増えるわい。民は感謝し、我は潤う。まこと素晴らしい循環じゃのぅ」
取り巻きの貴族たちが薄ら笑いを浮かべ、盃を傾ける。
「グルム殿の慈善活動は見事ですな。まさか“素材”の入手先が赤鎖とは誰も思うまい」
「ぶひひひ、言葉に気をつけい。ここは神聖な宴の場じゃぞ」
笑い声の裏で、赤鎖の部隊長が膝をついて報告していた。
「次の輸送分、確保済みです。騎士団の裏ルートを通せば明朝には――」
「よい、よい。神に仕える者の盾が我を守ってくれる」
グルムの目が細まり、唇がねっとりと歪む。
「人は“正義”を唱えながら、金の前では皆、膝を折るものじゃ……ぶひひひひ!」
◇◇◇
屋敷外――。
ミナが幻術を纏いながら庭の陰に潜む。
尻尾が小刻みに揺れていた。
あの声、あの笑い。
心臓が跳ねる。過去の記憶が呼び起こされる。
「ミナ、冷静に。呼吸を整えろ」
耳元の通信からユウリの声。
「……大丈夫。主様の声、聞こえてるから」
ミナは小さく息を吐き、幻走の構文を展開。
足元の影と一体化し、屋敷の裏口へと滑り込んだ。
《侵入成功。地下経路、複数確認。生命反応――捕縛対象、推定八名。》
「やっぱり、子どもたちが……!」
リアナが胸を押さえ、瞳を震わせる。
ティアは拳を握った。
「主様、もう我慢できないっ!」
「もう少しだ」
ユウリの声は低く、しかし燃えるような意志を孕んでいた。
「罪を犯した人間を裁くのは、神じゃない。――人間の手でだ」
◇◇◇
その頃、宴の奥。
グルム男爵が杯を傾けながら、満足げに言った。
「明日には“聖燐の家”へも寄付を出そう。あそこもそろそろ“新しい子”を紹介してくれる頃じゃ」
「ははっ、さすがは慈悲の男爵!」
「ぶひひひ! まったく、世の中は見せ方ひとつじゃのう!」
その瞬間――
屋敷の地下で、ミナの瞳が鋭く光った。
「……“聖燐の家”を狙ってる……!」
通信が一気に緊張する。
「ユウリ様、奴ら、孤児院を次の標的に!」
「……っ、そう来たか」
ユウリの表情が一瞬で変わる。
ティアが燃えるような目で問う。
「どうする、主様」
「決まってる」
ユウリは冷たく呟いた。
「あいつらの宴は、今夜で終わりだ」
夜のグランテールは、深く沈んでいた。
黒雲が月を隠し、街灯の光だけが石畳を照らす。
その光の下を、誰にも気づかれぬよう三つの影が走っていた。
ティア、ミナ、そしてユウリ。
目的地はただ一つ――グルム男爵邸。
◇◇◇
「β、通信を安定させろ。リアナの方は?」
《通信良好。聖燐の家防衛班、結界準備完了。神聖波動の調律率、94%。》
リアナは孤児院に残り、祈導士として防衛を任されていた。
子どもたちを再び泣かせないために――彼女もまた戦う覚悟を固めている。
ユウリは短く息を吐いた。
「いいか。今回の目的は“救出”と“確証”の二つだ。暴走は絶対にするなよ」
「はーいっ!」
「了解、主様」
ティアが元気に応え、ミナは耳をぴんと立てる。
対照的な二人の背中を見ながら、ユウリは内心で微笑んだ。
――守りたいものが、確かに増えている。
◇◇◇
グルム男爵邸、裏門。
ミナが幻術を展開し、空気の揺らぎに溶ける。
尻尾が静かに揺れ、まるで夜そのものを纏うようだった。
ティアが囁く。
「相変わらず、あの子の気配消しはすごいな……ボクでも見失いそう」
「幻走の斥候の本領だな。神獣の血が、もう目を覚まし始めてる」
ユウリの構文視界に、青い文字列が流れた。
《魂リンク:安定/成長度:23%→26%》
「……やっぱりな。魂の同調が進んでる。ミナの幻術、もう人間の域じゃない」
《マスター、補足。対象は神獣因子を媒介に、幻術を“存在改変”レベルに拡張中》
「それ、つまり?」
《物理的に“存在を見失わせる”ことが可能です》
「バケモノめ……」
そう呟いたユウリの声は、どこか誇らしげでもあった。
◇◇◇
屋敷内部。
ミナは檻の並ぶ地下へと潜入していた。
石造りの壁に鉄の匂い。湿った空気の奥から、かすかなすすり泣きが聞こえる。
光の少ない空間で、白銀の髪が微かに揺れた。
「……みんな、怖かったの?」
囁くような声に、怯えた瞳がゆっくりと上を向く。
子どもたち。五人。まだ幼い。
ミナと同じように、鎖をつけられた跡が腕に残っている。
「だいじょうぶ。ミナが助けに来たの」
優しく微笑み、そっと手を伸ばす。
だが、その瞬間――
「誰だッ!」
階段上から怒鳴り声。
赤鎖の見張りが二人、灯りを掲げて降りてくる。
ミナの瞳が光った。
幻走。
姿が霧のようにかき消え、次の瞬間には背後に回っていた。
短剣が閃き、喉元に冷たい感触。
「寝てて」
呟きと共に、意識が落ちる。
再び静寂。
ミナは胸に手を当てた。
――震えてる。
“殺さずに止めた”のは、主様との約束を守るため。
それでも、手はまだ冷たく震えていた。
◇◇◇
外ではティアとユウリが連携していた。
ティアが見張りを引きつけ、ユウリが構文で結界を上書きする。
「《改造構文・信号遮断領域》――起動」
空気が歪み、音が途絶えた。
屋敷の外と中を隔てるように、見えない壁が張り巡らされる。
「これで、悲鳴が上がっても誰も気づかない」
ティアが満足げに頷く。
「主様ってほんと便利……じゃなくて、すごい!」
「便利って言うな」
◇◇◇
再び地下。
ミナが子どもたちの鎖を解いていく。
錆びた音が一つ外れるたびに、彼女の胸の奥で何かが軽くなっていった。
「ありがとう、お姉ちゃん……」
「ミナでいいの。もう怖いのは終わりだよ」
子どもの小さな手が、ミナの尻尾に触れる。
暖かい。
それが、かつて失った“ぬくもり”の記憶を呼び起こす。
《マスター、ミナの心拍数上昇。魔力波が異常に安定しています》
「異常に安定……?」
《感情と魔力の同調。これは“神獣覚醒”の前兆です》
ユウリが目を見開いた瞬間、通信越しに光が弾けた。
◇◇◇
ミナの周囲で、淡い蒼光が舞い上がる。
風が流れ、髪がふわりと浮かぶ。
尻尾の先端から、幻のような炎が揺れた。
“幻と現の境界”が、彼女の中で溶け合っていく。
子どもたちが息を呑む。
「お姉ちゃん……光ってる……!」
ミナは微笑んだ。
「うん、ミナね……今度こそ、みんなを守るの」
そしてその背後で、階段を駆け下りる足音。
残った赤鎖兵たちが剣を抜き、怒号を上げた。
「侵入者だ! 殺せ!」
ミナの瞳が鋭く光る。
幻走の紋章が地面に展開し、無数の光刃が舞い上がった。
「《幻尾烈閃》――ッ!!」
閃光が走り、音が消えた。
幻の刃が空間を裂き、敵の武器ごと叩き落とす。
光と影の乱舞。
それは、神話にも似た光景だった。
◇◇◇
その頃、屋敷の上階。
グルム男爵は何も知らず、豪奢な椅子でワインを傾けていた。
「ぶひひ……静かじゃのう。やはり奴隷は黙っているに限るわい」
その背後で、窓が軋んだ。
風が吹き抜ける。
そして――静かに声が響いた。
「その言葉、訂正してもらおうか」
グルムが振り向いた時、そこに立っていたのは――黒衣の青年、ユウリ・アークライト。
蒼い構文光が、男爵の顔を照らした。




