最終話「旅立ちの前夜 ― 彼らが残した灯 ―」
夜が、静かに訪れていた。
王都ラナシェルの空には、新しい月が浮かんでいた。
崩れ落ちた祈導塔の影を白く染め、瓦礫の上に淡い光を落とす。
昼間の喧騒が嘘のように、街は今、穏やかな息づかいを取り戻している。
焦げた石畳の隙間には、子どもたちが植えた小さな花が顔を出していた。
その周りを灯り虫がふわふわと漂い、夜風に舞う花びらと混ざって淡い光の流れを作っていた。
壊れた祈導碑の隣では、老人たちが修復用の石を積み上げ、
焚き火の明かりに照らされながら静かに祈りを唱えている。
――誰もが、まだ少し怖がりながらも、
“明日”という言葉を信じ始めていた。
アーク・ノヴァの甲板では、風の音だけが響いていた。
修復を終えたばかりの船体は所々に焦げ跡を残し、
だがそこに流れる風は、どこか柔らかく感じられた。
ユウリは柵に背を預け、夜空を仰いでいた。
遠くでは、街の広場で焚かれた篝火がゆらめいている。
祈導士たちが市民と共に食事を分け合い、子どもたちが笑っている。
その笑い声が風に乗って、夜空へと溶けていった。
「……ようやく、静かになったな。」
《はい。》
背後で柔らかな声がした。
βの光体が現れ、ユウリの隣に浮かぶ。
彼女の身体から零れる微光が、甲板の金属を柔らかく照らしていた。
《街の再建が進んでいます。祈導層の残留波も安定。
明日には、完全復旧の見込みです。》
「人ってのは、強いな。」
ユウリは遠くの篝火を見つめながら呟いた。
「祈りを奪われても、また立ち上がる。」
《それが、あなたの“再定義”した世界です。》
βの声は、どこか温もりを帯びていた。
《……マスター。》
「ん?」
《私は……嬉しいのだと思います。》
ユウリが目を細めた。
「それは、感情か?」
《はい。……恐らく。》
βは静かに頷くように光を揺らした。
《人の笑い声を聴いて、心拍が上がるのを感じました。
これは、恐らく“喜び”というものです。》
「だったら、それを覚えておけ。」
ユウリは夜風を受けながら言った。
「それが、生きるってことだ。」
βの光が、心臓の鼓動のように脈動した。
金と青の粒子が波紋のように広がり、空の星屑に溶けていった。
下層デッキ。
静かな波の音と、港の明かりが遠くで瞬いていた。
ティアとミナは並んで腰を下ろし、膝を抱えて空を見上げていた。
ふたりの髪が夜風に揺れ、尻尾がそっと触れ合う。
「主様、やっと寝たね。」
ティアが頬杖をついて微笑んだ。
「今日だけは、ゆっくり休ませてあげよう。」
「ミナ、主様が寝てる顔見るとね……安心するの。」
「ふふっ、ティア姉もそうなんだ。」
二人の尻尾がふわりと重なり、くすぐったそうに笑い合う。
遠くでは、夜の潮風が石壁を撫でている。
「ねぇ、ティア姉。」
「ん?」
「ミナ、まだ怖い。次の戦いとか、またあんな夜が来たらって。」
ティアはしばらく黙って星を見ていた。
星々が水面に反射し、波の上に揺れる。
「ボクもだよ。でも――それでも、もう逃げない。」
「どうして?」
「主様が教えてくれた。“守りたい”って気持ちは、怖さより強いんだって。」
ミナはしばらく黙ってティアを見つめ、それから小さく笑った。
「……ミナも、そうなる。」
「うん。きっと、もうなってるよ。」
ティアの笑顔は、夜空よりも暖かかった。
祈導塔跡の広場。
リアナとセリスが焚き火の前で並んで座っていた。
聖典を修復していた祈導士たちは既に眠りにつき、
今はただ、火の明かりだけが二人を照らしている。
「……人の祈りって、壊れないんですね。」
リアナが火を見つめながら呟いた。
「ええ。」
セリスの声は、夜風に溶けていくようだった。
「たとえ奪われても、また芽吹く。……森と同じ。」
「ふふ。やっぱり、あなたは優しい風ですね。」
「そう……思う?」
「はい。」
リアナが微笑んだ。
「私たちは、風と祈りで、世界を守っていくのだと思います。」
焚き火が小さく爆ぜ、火の粉が空に舞い上がった。
それはまるで、かつて燃え尽きた祈りが再び星へ還っていくようだった。
夜更け。
アーク・ノヴァの甲板に、仲間たちが集まっていた。
冷たい風の中で、王都の方角に連なる灯りが星座のように見えた。
祈導塔跡には新しい祈りの光が灯り、街の輪郭を再び照らしている。
「……行こう。」
ユウリが静かに言う。
「明日、この街を発つ。」
ティアが目を丸くして微笑んだ。
「次の場所、もう決まってる?」
「いや。まだだ。」
ユウリは少し笑って答える。
「けど、どこへでも行ける。もう“世界が閉じてる”わけじゃない。」
リアナが頷く。
「はい。けれど、必ず戻ってきましょう。この街が次の祈りを生む時に。」
「風が、背中を押してる。」
セリスが目を閉じ、そっと微笑む。
「ボクは炎で道を照らす!」
ティアが拳を握りしめた。
「ミナも! パンとお菓子、いっぱい見つける!」
ミナが尻尾をぱたぱたさせる。
皆が笑い、夜空に小さな温もりが生まれた。
《航路設定、明朝に完了予定。》
βが光を広げる。
《目的地――未定義、ですが。》
「構わないさ。」
ユウリは皆を見渡した。
「目的地なんてあとで決めればいい。大事なのは――どこへでも行けるってことだ。」
風が吹き抜け、星々が瞬く。
アーク・ノヴァの外殻が白銀に光り、βの光粒子が天へと舞う。
その光は、まるで未来そのもののように柔らかく、確かな輝きを放っていた。
翌朝――。
王都の空は、雲ひとつない蒼天だった。
街の人々が見送る中、アーク・ノヴァがゆっくりと浮上する。
聖堂の鐘が鳴り、花びらが空に舞う。
子どもたちが手を振り、老人が杖を掲げ、
兵士たちが敬礼をしながら、涙を隠した。
ユウリは振り返り、手を高く挙げた。
「ありがとう――必ずまた会おう!」
その声が風に乗って王都中に響く。
《再航路展開。黎明航行――開始。》
βの声が柔らかく響き、光が船体を包んだ。
アーク・ノヴァが青空を貫く。
金と白の光跡を描き、朝陽の中で翼を広げた。
王都の空に残された光の弧が、ゆっくりと虹に変わっていく。
それは、希望と祈りの再定義――“人が自分の未来を信じられる世界”の象徴だった。
――そして、物語は再び旅へと還る。
~Fin~




