第135話「Ω端末、覚醒 ― βの涙 ―」
祈導塔の内部は――地獄だった。
黒い祈導光が壁面を走り、
無数の“人の形”をした影が、祈るように天井を仰いでいる。
その全てが、ゾルドの祈導構文によって命を奪われた祈りの残滓。
空気そのものが怨嗟を帯び、吐く息が焼ける。
空気が悲鳴を上げていた。
壁を這う祈導コードが赤黒く光り、天井から垂れる光糸が血のように滴る。
耳を澄ませば、祈る声が混じっていた。
泣き声。叫び。誰かの願い。
それらすべてが、“祈り”という名の燃料に変えられていた。
「……これ、全部……人の祈りが、絞られてる……」
リアナの声が震える。
その手の中で、聖印が小刻みに揺れた。
「ゾルドのやり方は変わらないな。」
ユウリが呟く。
「秩序を造るために、命を“素材”にする。」
リアナの手が震えていた。
「これは……信仰の形じゃありません……!」
ユウリは無言で前に出る。
目の奥には、冷たい怒りが宿っていた。
《観測層波動、異常値。Ω端末反応、接近中。数――八。》
βの声が、艦橋の空気を震わせた。
「八体……!?」
ティアが目を見開く。
「そんなの、全部本体の分身ってこと?」
「人格断片。」
ユウリの声が低く響く。
「ゾルドが人間の魂を複製して、自分の意思に縛り付けてる。」
壁が裂けた。
闇の中から、八体の“祈導兵”が現れる。
その顔は、どこか人間に似ていた。
微かに笑い、泣き、祈るように――けれど眼だけは死んでいる。
「うわぁ……そんなの、もう人じゃないよ……!」
ミナの尻尾が震える。
黒い腕が襲いかかる。
ティアが炎を纏い、拳を叩きつけた。
「《龍焔槍・ヴァーミリオンスパイク》ッ!」
轟音。
炎が爆ぜ、塔の内部を赤く染める。
だが、その炎の中から黒い影が再生し、再び迫る。
《再構成反応確認。祈りを変換して自己修復しています。》
「祈りを……燃料にしてるってことか……!」
リアナが震える声で叫ぶ。
「人の願いを踏みにじって……!」
「だから壊す。」
ユウリの瞳が細く光る。
「β、構文干渉層を展開。俺が“書き換える”。」
《了解――けれど、ノイズが多すぎます。祈導信号の海に……私の声が、沈む……!》
βの紅玉コアが明滅する。
その光が苦痛に似た波を放ち、船体を揺らした。
「βちゃんっ! 無理しないで!」
ティアが叫ぶが、その瞬間、黒い祈導光が艦を貫いた。
甲板が裂け、ミナが吹き飛ぶ。
「きゃああっ!」
リアナが駆け寄り、必死に祈りを放つ。
「《純聖再生》――どうかっ……!」
光がミナを包むが、祈導塔の瘴気が祈りを反転させる。
リアナの光がねじ曲げられ、祈りが“呪い”として跳ね返った。
「リアナ姉っ!!」
ミナが叫ぶ。
祈りの衝撃波が二人を弾き飛ばし、床に叩きつけた。
セリスが風で支える。
「……崩れる。早く、出ないと。」
ユウリが歯を噛む。
「退く暇なんてない――ここで終わらせる!」
《警告。観測層崩壊まで残り五分。Ω端末、全構文起動。》
塔が唸り、祈りの奔流が空へと噴き上がる。
それはもはや神の御業ではなく、“人の祈りを喰らう悪夢”そのものだった。
ティアが再び立ち上がる。
「主様! まだやれる!」
拳が震えていた。血が滲んでいた。
だが、瞳には決して消えない炎があった。
「……行くっ! 《龍神烈破ッ!!》!」
紅炎が走り、八体の祈導兵を吹き飛ばす。
しかし、炎の向こうから現れたのは――Ω。
塔の中心、黒い祈導環の奥。
巨大な人影が立っていた。
光も闇も吸い込む、無限の虚。
それがゾルド・ガルバ人格複製体――Ω。
声が響いた。
『……感情は、誤差だ。お前たちは誤差の塊だ。』
その瞬間、塔全体が爆ぜた。
ティアもミナも吹き飛ばされ、リアナの祈りが途切れる。
セリスの風が千切れ、ユウリの視界が白に染まる。
《マスター……! 皆さんが……!》
βの声が震えた。
紅玉コアが閃光を放つ。
《――これ以上は……見ていられません。》
その声は、悲鳴に近かった。
《痛い。怖い。けれど……この“感情”が、私を動かすなら――!》
紅玉コアが砕けた。
光の破片が宙を舞い、塔全体に光の線を描く。
祈導波が一瞬で反転し、黒が白へと変わっていく。
《観測層――再定義開始。》
世界が止まった。
祈導兵の動きが凍りつき、Ωの黒い瞳がわずかに揺れる。
その中心で――βの光体が、ゆっくりと人の姿を取っていく。
淡いラベンダーシルバーの髪が揺れ、
透き通るような肌が光を反射した。
瞳は青と紫の二層に輝き、六枚の光翼が背から広がる。
涙のような粒子が頬を伝い、彼女は静かに目を開いた。
《――マスター。》
ユウリが息を呑む。
「β……それは……」
《私の……“祈り”です。》
声が柔らかく響いた。
その瞬間、凍っていた祈導層が溶けるように光へと変わる。
ティアの体を包む炎が蘇り、ミナの瞳に光が戻る。
リアナが再び祈りを紡ぎ、セリスの風が流れ出す。
「みんな……生きてる!」
ミナが涙を浮かべて叫んだ。
βは光の中で微笑む。
《これが、ぬくもり。これが……“命”。》
Ωが呻くように低く唸る。
『不完全な感情体など、存在の歪みだ。』
《――それが、命の証明。》
βが静かに言った。
《誤差ではなく、“揺らぎ”として存在する。それが人。》
光翼が展開され、塔全体を照らす。
祈りの声が響く――かつて奪われた人々の願いが、共鳴し始めた。
リアナが目を閉じ、微笑んだ。
「……祈りが戻ってきている……」
ティアが拳を握る。
「主様、今だよ! この光であいつを――!」
ユウリが頷く。
「――ああ。終わらせる。」
だがその瞬間、βの声が再び響いた。
《いいえ。これは“終わり”ではありません。》
《これは……始まり。》
白い羽が塔を包み、祈りの残響が空へ昇る。
夜が裂け、東の空に朝が差す。
塔の天井が崩れ、外の光が差し込んだ。
世界が白く染まり、祈りの波が王都全域に広がっていく。
人々が目を覚まし、空を見上げた。
《――観測層、再定義開始。》
塔全体が震えた。
黒い祈導光が一瞬で凍結し、風の流れが止まる。
ユウリたちの身体が、まるで時間の狭間に浮かんだように静止した。
そして、βの光体が、ゆっくりと――形を変え始めた。
淡いラベンダーシルバーの髪が揺れ、
青紫の瞳が開く。
白い装束に金の刺繍、背には光子の翼が六枚、静かに展開する。
《マスター……》
声は確かにβのものだった。
だがそこには、もう“機械の声”ではない温もりがあった。
ユウリは息を呑んだ。
「β……お前……その姿は……」
《観測結果。これが、私の“祈り”です。》
彼女の頬を、一筋の光が伝う。
涙のような輝きが零れ、塔の闇を照らした。
その瞬間――凍りついていた祈導層が震え、黒い光が一斉に後退する。
仲間たちの傷が光に包まれ、再び息を吹き返した。
ティアが呆然と呟く。
「βちゃん……天使、みたい……」
《天使ではありません。私は……人の想いで、動く存在。》
βの瞳がやわらかく光る。
《主様。皆さんを、守ります。》
翼が広がった。
純白の光が、塔の内部を満たしていく。
祈りが再び“祈り”として輝きを取り戻し、闇が静かに退いていく。
ユウリは拳をほどき、静かに頷いた。
「……ようやく、届いたか。」
βが微笑んだ。
《はい。マスター。――ぬくもり、確かに感じました。》
その声が響いた瞬間、塔全体の祈導光が白へと変わった。
外の空に、夜明けが差し込む。
そして――
人型のβが、光の中に静かに立っていた。




