第130話「王都の影 ― 王女セレスティーネの祈り」
夜が深く、王都ミラ・ラナは不気味な静寂に包まれていた。
普段なら海風が鐘の音を運ぶ時間帯。けれど今夜は、風さえも祈りを恐れて止まっている。
祈導塔セレナ・スパイア――王都の中心に立つ白塔の光が、いつもと逆向きに流れていた。
空へ昇るはずの祈りが、まるで地の底へ吸い込まれていく。
その光はどこか黒く、重く、まるで“誰かの嘆き”を飲み込んでいるかのようだった。
王宮北翼の塔。
寝室のカーテンが夜風に揺れ、月明かりが金砂色の髪を照らす。
王女セレスティーネ・ラナシェルは、夢の途中で目を覚ました。
胸の奥が妙にざわついている。祈りの波が乱れ、体の奥で共鳴していた。
「……祈りが、逆流している……?」
声に出した瞬間、その言葉が空気を震わせた。
指先に刻まれた祈導の紋章が淡く光り、まるで何かを訴えるように脈打つ。
長年、祈りとともに生きてきた彼女には分かる――これは、ただの錯覚ではない。
遠くで鐘が鳴った。
それは時を告げるものではなく、混乱の報せ。
窓の外、街路の光がちらつき、祈りの歌声が悲鳴へと変わっていく。
扉が叩かれ、侍女が息を切らせて入ってきた。
「王女殿下! 祈導庁より伝令が……! “神の御心は不可侵なり、殿下は静かにお祈りを”とのことです!」
その形式的な言葉に、セレスティーネは目を伏せた。
薄い唇から、静かな吐息が漏れる。
「そう。では――神は、今も沈黙を選ばれたのね。」
彼女は寝衣の上に軽いマントを羽織り、靴音を立てずに廊下へ出た。
磨かれた床に月光が差し込み、長い影がゆっくりと伸びる。
外では、民の祈りがざわめきから嗚咽へと変わりつつあった。
王宮謁見の間。
高窓の向こうで、祈導塔の光が脈打っている。
薄明の蝋燭が揺れ、宰相ヴァルデスと祈導庁上位導士たちが低い声で言葉を交わしていた。
「祈りの乱れは、民の信心が足りぬ証です。」
「王家は“潮の加護”を発動し、神に赦しを乞う儀式を開かねばなりません。」
その言葉には、人を導く温度も、悔いもなかった。
あるのは“秩序の維持”だけ。
セレスティーネは扉の陰に立ち、拳を握りしめる。
(……祈りが乱れているのは、誰のせい? 本当に、民のせいなの?)
祈導庁は神を掲げ、王家は民を鎮めるために祈りを利用する。
信仰と支配が絡み合い、誰も疑おうとしない。
その構造を“正義”と呼ぶのなら――あまりに、悲しい。
足音が近づいた。
銀の鎧を纏った近衛騎士、アリオスが姿を見せる。
若く、穏やかな目を持つ男だった。白百合派の生き残りでもある。
「殿下、またお忍びで? ヴァルデス殿に見つかれば、説教では済みませんよ。」
「……知っています。でも、聞かなければ分からないこともあるわ。」
小さく微笑むその表情には、王族の威厳よりも、人としての優しさがあった。
アリオスはため息をつき、兜の縁に手を当てる。
「殿下らしいお言葉です。けれど……どうかお一人で抱え込まれませんように。」
セレスティーネはしばらく黙って彼を見つめた。
そして、ゆっくりと問いを投げかける。
「もし神が沈黙したら――人は、誰を信じるべきだと思う?」
その声はかすかに震えていた。
アリオスは驚いたように目を見開き、やがて静かに答える。
「私は、殿下が信じるものを信じます。」
「……ありがとう。」
短い言葉に、ほんの一瞬だけ安堵が灯る。
けれどその笑みの奥には、すでに“覚悟”があった。
「なら、私は人を信じたい。祈りを人へ返す方法を探すわ。」
その数刻後。
王宮に駆け込んできたのは、冒険者ギルド《潮の声》の代理マリナだった。
服には砂塵が付き、腕には浅い火傷の跡。
それでも彼女の目は、諦めを知らない光を宿していた。
「王女殿下、港区で異変が。祈導庁の光が……まるで“祈りを吸い上げている”んです。」
「吸い上げている……?」
「ええ。祈りが神に届いてない。代わりに、何かに“利用されている”。」
セレスティーネは窓の外を見やった。
祈導塔の光が、まるで脈動するように明滅している。
塔の周囲には黒い靄――ゾルドの干渉が始まっていた。
「……民が恐れているでしょう。」
「恐れよりも、諦めです。
“神は見ていない”って、みんなもう気づいてるんですよ。」
沈黙。
王女の喉がわずかに震えた。
マリナはその表情を見て、少しだけ声を落とす。
「殿下。祈りを奪われたままじゃ、人は壊れます。
けど、自分の手で祈りを取り戻すなら……まだ間に合う。」
セレスティーネはゆっくりと頷いた。
そして、穏やかな微笑を浮かべる。
「あなたたちは、神に背く覚悟を持っているのね。」
「ええ。でも――神より人を信じる方が、怖くないです。」
その言葉が、王女の胸の奥に深く刺さった。
マリナが去ったあとも、しばらく彼女は立ち尽くしていた。
「……あなたたちのような人が、国を救うのかもしれないわね。」
夜が更けた。
王の間は静まり返り、ただ炎の音だけが響いていた。
中央の玉座の前で、セレスティーネはひざまずく。
「神よ……本当に、あなたはいらっしゃるのですか?」
返事はない。
天井の聖像が崩れかけた光を放つだけ。
その光が冷たく感じられ、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「神が応えぬなら、私が応えよう。」
彼女は王家の宝珠《潮晶》に手をかざす。
蒼い光が爆ぜ、祈導式の陣が王都全域に広がった。
街中の祈りが共鳴し、風が泣き、夜空が震える。
その光は神ではなく、人の祈り。
セレスティーネが自らの命を削り、民を包むために放つ加護だった。
街路に集う人々が、光を見上げ、久しぶりに涙を流す。
誰かが呟く。「まだ、神はいるのかもしれない」――
けれどそれは違う。
本当は、“人が人を照らしている”のだ。
光が静まり、王女は窓辺に立った。
夜明け前の空。
遠く、海の彼方に小さな光の筋が走る。
それは――《アーク・ノヴァ》の航跡だった。
「どうか……祈りを繋ぐ者たちが、この国を見捨てませんように――」
彼女の言葉は風に乗り、夜空を渡っていく。
その直後、上空に淡い波紋が広がった。
βの観測層が反応し、王女の祈りが確かに届いたことを示していた。
王都はまだ知らない。
この夜、ひとりの王女が“神の代わりに祈った”ことを。
そして――その祈りが、世界を動かす最初の光となることを。




