第127話「それぞれの平和な日常」リアナ・セリス編
★祈りと紅茶と、少しのいたずら
王都ミラ・ラナの昼下がり。
陽光が石畳を照らし、教会区の鐘が静かに鳴り響く。
戦火の痕跡はほとんど癒え、街には穏やかな日常が戻りつつあった。
リアナ・エルセリアは《アーク・ノヴァ》の甲板デッキで、ゆっくりと紅茶を淹れていた。
白い修道服の袖口を少しまくり、静かな手つきでポットを傾ける。
揺れる蒸気とともに、花のような香りが漂う。
「……ふぅ。これで温度も完璧です。」
風が髪を揺らす。
潮の匂いと茶葉の香りが混じり合い、まるで“祈りの午後”のようだった。
そこへ、ユウリが姿を現す。
「リアナ、ここにいたのか。」
「はい、ユウリ様。お疲れのようでしたので、少し休憩をと思いまして。」
「……まさか、また手作りの紅茶か?」
「“また”とはご挨拶ですね。」
リアナが小さく微笑む。
ユウリの前に置かれたカップからは、ほのかに桃の香りがした。
「今日は王都で仕入れた茶葉を使いました。“祈導花”というそうです。」
「名前からして……高そうだな。」
「いえ、少し値切ってきました。ティアさんの交渉術が役立ちましたよ。」
リアナの笑みは柔らかく、どこか“家庭的な温もり”があった。
その空気に、ユウリも思わず口元を緩める。
「……悪くない。甘い香りだな。」
「ユウリ様が甘いものをお好きだと、ミナさんから聞きましたので。」
「……ミナが余計なことを。」
そう言いながらも、彼は素直にもう一口飲んだ。
リアナの指がわずかに震える。
その微かな仕草に、彼女の胸の鼓動が重なる。
(……ユウリ様に喜んでいただける。それだけで……十分。)
その時、背後から声がした。
「リアナお姉ちゃ~ん! 何してるの?」
ミナだった。
両手に焼き菓子を抱え、尻尾をぱたぱたと揺らしている。
「ミナさん、これはユウリ様の……」
「わっ、紅茶だ! ミナも飲んでいい?」
「ま、待ちなさい、それは――」
ミナがカップを手に取った瞬間、
「……あつっ! にがいっ!」
思わず舌を出し、尻尾がぴんと跳ねた。
リアナは小さくため息をつく。
「だから言いましたのに……」
「でもでも、なんか祈りの味がする~」
「それは……褒め言葉として受け取りますね。」
ミナが笑って逃げ、ティアが通りがかる。
「リアナ姉、また紅茶? ボクも飲む~!」
「はいはい、少し冷ましてからですよ。」
リアナの声は優しく、それでいてしっかりとした調子だった。
姉のように、時に母のように、彼女は皆を包んでいた。
夕刻。
甲板にはオレンジ色の光が差し込む。
リアナは空を見上げ、胸の前で手を組んだ。
「……今日も、みんなが笑っていられますように。」
その祈りは、風に溶けて空へ昇っていく。
その背後で、ユウリが静かに言った。
「なあ、リアナ。」
「はい、ユウリ様。」
「お前の祈りは、もう神様じゃなくて、人に向いてるんだな。」
リアナは目を細め、穏やかに微笑んだ。
「ええ。神ではなく――“今を生きる人々”に。」
「それが……私の信じる祈りです。」
ユウリは頷き、そっと彼女の肩に手を置いた。
風がふわりと二人の間を通り抜ける。
《観測ログ:幸福度、上昇。》
βの小さな声が風に混じったが、誰も気づかなかった。
夕日が沈む頃、《アーク・ノヴァ》の甲板は黄金色に染まり、静かな一日が終わっていった。
◇◇◇
★セリス・フィオリアと風の詩
王都ミラ・ラナの朝。
祈導塔の鐘が鳴り、街の広場はすでに賑わいを見せていた。
露店の香辛料、焼き立てのパン、商人たちの掛け声。
人の声と匂いが交ざるその場所に――《再定義者》の面々が立っていた。
「……ここ、すごい」
セリスがぽつりと呟いた。
風が彼女の緑髪を揺らす。
周囲の人々の喧騒に少し目を細め、耳を澄ませた。
「風が……騒いでる」
「いや、それは人の声だよ、セリス」
ティアが苦笑する。
「そっか……人の声、うるさい」
リアナが小さく肩をすくめた。
「賑やか、というのです。喜びの証ですよ」
「……学習」
セリスは頷き、屋台の列に歩み寄る。
香草の束を売る女性が笑顔で声をかけた。
「お嬢さん、今日のは新鮮だよ! 一束銅貨二枚!」
「……二枚?」
セリスがきょとんとした表情で立ち止まる。
βが肩の上で光を点滅させた。
《貨幣単位:銅貨。人間社会における低額通貨。》
「……うん、知ってる。でも、“二枚”って、どのくらい?」
ティアが即座に助け舟を出す。
「一個パン買えるくらい!」
「じゃあ……五束」
店主が目を丸くした。
「五束? お、お嬢さん、そんなに要るのかい!?」
セリスは真顔で答える。
「……風にあげる」
「……」
「……」
ティアとミナが同時に固まった。
ミナが首をかしげる。
「セリスお姉ちゃん、それ、風食べないと思うよ……?」
「……そう?」
リアナがくすりと笑った。
「彼女にとっては“風”も仲間なのですよ」
《取引記録:成立未確定。》
「β、記録しないで」
《了解。》
セリスは銅貨を取り出すと、じっと見つめた。
光を反射する金属板に、彼女は首を傾げる。
「……不思議。命、ないのに価値ある」
ユウリが小さく笑った。
「それが“人の決めた価値”ってやつだ。物そのものより、思いの流れで値が動く」
「……“流れ”。風と似てる」
そう言ってセリスは、そっと銅貨を風にかざした。
柔らかな風が吹き抜け、金属がわずかに鳴る。
ティアが苦笑する。
「風にお金見せてどうすんのさ」
「……礼。今日の風、優しい」
その静かな笑みは、どこか神秘的だった。
ミナが思わず小声で呟く。
「……なんかずるい。そういう笑い方、反則」
βの光がふわりと瞬く。
《観測結果:ミナ、嫉妬反応を検出。》
「べ、別にしてないもん!」
《否定を確認。感情値、上昇。》
「βちゃん、ほんと余計なこと言う〜!」
広場に笑いが弾ける。
セリスが小首をかしげた。
「……楽しい。人の風、あたたかい。」
ユウリはその様子を見て、静かに頷いた。
「そうだな。お前の“風”も、もうこの街の一部だよ。」
セリスは小さく目を細めた。
風が彼女の周りで舞う。
「……なら、もう少し歩く。風が、歌ってる。」
《記録。セリス・フィオリア、感情値:安定。好奇心、上昇。》
βの声が流れ、仲間たちの笑い声が広場に響く。
王都の空は澄み、風は確かに――彼女の名を運んでいた。




