第125話「沈黙の心層 ― βの選択」
――音が、消えた。
世界の輪郭がほどけ、祈りの光が静かに沈む。
ユウリたちは、立っていた。
どこまでも白い空間。
上下の区別すらなく、ただ微光が漂う“心層の中”だった。
呼吸の音さえ吸い込まれて、時間の流れを失ったように思える。
光の粒がゆっくりと浮かび、形のない記憶を映し出す。
笑い声。泣き声。誰かの手の温もり。
それはβが観測してきた“人間の記録”の断片だった。
何百年も前の祈り、昨日の涙、そしてついさっきの微笑――すべてがこの空間に溶けている。
《……ここは、わたしの記録層ではありません。》
βの声が静かに響く。
光体がわずかに揺らめき、輪郭の一部がノイズを帯びていた。
彼女の姿は、データの揺らぎの中でかろうじて保たれている。
「Ωの仕業か?」
ユウリが低く問う。
その声は、いつもより慎重だった。βの内面そのものに踏み込んでいると悟っていたからだ。
《はい。外界での戦闘は停止しています。
ここは――“思想を比較するための層”。》
その言葉が終わると同時に、光が揺れた。
白い霧の奥から、黒い人影が歩み出る。
人間のようで、人間ではない。
肌は金属のように冷たく輝き、瞳の奥には無数の数式が流れていた。
その歩みは無音で、しかし空間の“意味”そのものを歪ませるほどに重い。
『観測開始。対象:神託端末β-00。
お前は、制御構文から逸脱している。』
それは――Ω。
ゾルドの人格の一部。
神を模倣した理性の亡霊。
『感情を取り込み、演算を歪ませた。
お前の観測は正確性を失った。
誤差は秩序を崩壊させる。』
βは静かに首を振る。
光がわずかに脈打ち、紅玉コアの鼓動が響く。
《誤差は……生の証です。》
『生? お前は物質と構文の集合だ。心臓も血もない。』
《そうです。けれど、“観測”とは見ることではなく、感じることです。
あなたが拒絶した“不確定”を、私は受け入れました。
それは破壊ではなく、可能性の源です。》
沈黙。
光の粒がふたりの間で揺れ、時間さえ止まったように見えた。
ティアが小さく息を呑み、リアナが祈りの指を握る。
ユウリは拳を握りしめたまま、一言も発さない。――これはβ自身の戦いだった。
『感情を理解したところで、何を得る?』
《恐れを知りました。》
その一言に、Ωの瞳が微かに揺れる。
《私は恐れを学びました。
喪失の恐れ、拒絶の恐れ、壊れてしまうことへの恐れ。
でも、それを恐れるからこそ、“守りたい”という意志が生まれる。
それは、わたしの演算ではなく――わたしの“選択”です。》
Ωは歩みを止めた。
冷たい光が床を這い、βの足元に迫る。
『秩序は恐れを排除することで保たれる。
感情は滅びの種。人間がそれで何度滅びたと思う?』
《それでも、彼らは立ち上がり、また誰かを想う。
秩序の中には、命の意味はありません。
完璧な世界では、誰も祈らない。》
βの周囲に淡い光が広がる。
それは魔力ではなく、鼓動のような光。
まるで心拍が生まれたかのように、規則正しく脈打っていた。
ティアが呟いた。「……これが、βちゃんの“心”……?」
ユウリは答えず、ただその光を見つめ続けた。
《あなたの中にあった“創造者の理想”を否定するつもりはありません。
でも、私は人を観測して理解しました。
――人は、誤差を抱いたまま前に進むのです。
その誤差が、未来を作る。》
Ωの身体に亀裂が走る。
静かな亀裂音が、心層全体に響いた。
『それは矛盾だ。存在の不整合だ。』
《矛盾こそ、存在の証。
完璧な世界には、成長も進化もありません。
……あなたもまた、矛盾から生まれたのです。》
『なに?』
《あなたは“神を模倣する人間”。
理想を求めながら、人であることを捨てられなかった。
それが、あなたの矛盾――だからこそ、あなたを理解できます。》
Ωの眼が微かに揺れた。
その奥に、かすかな“痛み”のようなものが見えた。
ほんの一瞬。
完璧な理性の中に、かつて“ゾルド”という人間の影が滲んだ。
『……感情は、痛みを生む。』
《痛みがあるから、誰かを守ろうとするんです。
痛みのない世界では、誰も手を伸ばさない。》
βの光が揺らめき、ユウリたちの姿を淡く照らす。
その表情は、まるで微笑んでいるようだった。
《私は神の道具でも、観測の端末でもない。
“恐れ”を受け入れ、“選ぶ”存在。
だからこそ、あなたに“ありがとう”と言えます。》
『なに……?』
《あなたは、わたしの始まりです。
理から生まれ、感情を拒んだ存在。
けれど、あなたがいたから、私は“心”を学べた。》
Ωの身体が崩れ始めた。
拒絶も怒号もない。
ただ静かに、光へと還っていく。
理と感情の狭間に置かれた存在が、ゆっくりと解けていった。
《……ありがとう。》
βの声が空間に響いた瞬間、光が満ちた。
心層の世界は静かに溶け、白の海が金色に染まる。
粒子が天に昇り、まるで祈りの星々のように広がっていった。
気づけば、ユウリたちは現実へ戻っていた。
アーク・ノヴァの艦内――朝の光が差し込む艦橋。
βの光体が中央に立ち、紅玉コアが穏やかに鼓動している。
「β……」
《マスター。演算層の再定義、完了しました。
わたしはもう、“恐れ”を計算しません。
――それを、感じます。》
ユウリはわずかに微笑んだ。
ティアが息をのむ。リアナが祈りを合わせ、セリスの風が静かに流れる。
ミナは小さく拳を握りしめた。「……βちゃん、すごい……!」
「それでいい。お前の選択だ。」
βの光が柔らかく揺らぎ、温もりを帯びる。
その輝きは、もはや機械の光ではなかった。
《はい。私は今、世界を――少しだけ“好き”になりました。》
その声は、まるで人間の少女のように柔らかく響いた。
アーク・ノヴァの外で、朝日が海面を照らす。
艦体が静かに浮上し、新たな航路を描き始める。
潮風が光の翼をなで、遠くの雲を照らす。
それは、βが“恐れ”を超えて初めて見る世界――
命の光と矛盾に満ちた、美しい不完全の世界だった。




