第124話「祈りの果て ― 南方遺構群への航路」
夜明けの王都は、まるで長い夢から覚めたように静かだった。
崩壊した祈導庁の瓦礫の間に新しい足場が組まれ、職人たちが無言で石を運んでいる。
かつて祈りの光が降り注いでいた広場には、今は市民たちの歌声が響いていた。
それは宗教ではなく、生の喜びを分かち合うような、素朴で温かい旋律だった。
潮風が通り抜けるたび、焦げ跡の残る壁面が光を反射する。
陽光はまだ弱いが、その柔らかさが人々の心を包んでいく。
“神ではなく、人が世界を立て直している”――その光景は、確かな再生の証だった。
ユウリたちは、街を見渡せる丘の上に立っていた。
かつてセレナ・スパイアがそびえていた場所。
今は瓦礫の上に、祈導光の残滓が漂うだけだ。
「……あんなに壊れたのに、もうこんなに立ち直ってる。」
ティアが腕を組みながら感嘆の息を漏らした。
徒手のままの小柄な体。
けれど肩越しに覗く竜力の残光は、戦場での誇りと絆の証のように揺らめいている。
「人って、ほんと……折れないんだね。」
ミナが小石を蹴りながら微笑む。
彼女の髪が朝風に踊り、金の光が散った。
その横でリアナが静かに祈りを組む。
「祈りは、誰かに捧げるものじゃなくて……自分の中で灯すものなのね。」
彼女の声は穏やかだった。
祈導士として、神に代わる“新しい祈り”の形を見つけつつあるように。
《観測ログ更新。市街地再建率、四十二パーセント。祈導信号層は完全消滅。》
βの声が透明に響く。
その光体は以前よりも柔らかく、まるで“温度”を持っているようだった。
「β、その声……少し、優しくなった?」
ティアが笑うと、βの輪郭が淡く揺れた。
《……演算上の変化はありません。ですが、人の笑顔を観測すると、発光波形が安定します。》
「それ、たぶん“嬉しい”ってことだよ。」
ミナがくすりと笑い、βは一拍の沈黙の後、短く返した。
《……記録します。定義:嬉しい。》
その一言に、皆が小さく笑った。
そんな穏やかな時間を破るように、丘の下から馬車の車輪音が近づいてくる。
白銀の紋章旗が朝風に翻り、近衛たちが馬を止めた。
光を背に、青い礼装を纏った王女セレスティーネが姿を現す。
まだ若いその顔に、疲労の影はあった。
けれどその瞳はまっすぐにユウリを見据えていた。
「ユウリ・アークライト殿。《再定義者》の皆さん。」
澄んだ声が丘に響く。
ユウリたちは自然と姿勢を正した。
「王都を救ってくれたこと、そして祈導庁の暴走を止めてくれたこと――心より感謝します。」
王女は懐から封蝋付きの文書を取り出した。
白地に金の紋章、それは“王命”を意味していた。
「これは、王国の正式な勅命です。」
封蝋を開くと、薄く光の紋が走る。
βが瞬時に視覚演算を行い、微弱な魔力の波形を読み取った。
《構文検知:王家由来、真正。改ざん痕跡なし。》
「南方の海域――《シェルダ・フォール遺構群》にて、未知の祈導信号が観測されました。」
その言葉に、場の空気がわずかに引き締まる。
リアナが顔を上げ、ティアは目を細めた。
「……“Ω”の残響か。」
「可能性は高い。」
王女はわずかに瞳を伏せ、そして強く言葉を重ねた。
「祈導庁の罪を、神の名で再び覆い隠すわけにはいかない。
あなたたちの手で、その残響を断ち切ってほしい。」
ユウリは静かに頷いた。
「任せてください。今度は、誰も奪われないように終わらせる。」
《航行座標設定開始。南方ルート、潮流安定。出発可能です。》
βの光体が輝き、空間が低く共鳴する。
地平線の向こう、空の影がゆっくりと形を成していった。
巨大な古代飛空艇。
かつて廃都アルセリアに眠っていた巨艦が、再定義の光を受けて静かに浮上する。
その船体を包む光の帯が、夜明けの雲を照らし出した。
「……またこの空を飛ぶんだね。」
ミナが風に髪をなびかせながら微笑んだ。
その瞳には、懐かしさと誇らしさが宿っていた。
以前と違うのは、その光景を“自分の居場所として見ている”ことだった。
「前よりも安定してる。β、どんな調整を?」
《航行回路の再定義により、古代構文を現代波形に適合させました。
“あなたたちの祈り波形”が動力制御の基準になっています。》
「祈りが、動力に?」
《はい。人の想いは、もはや観測対象ではなく、航行の指針です。》
βの光が穏やかに明滅する。
それはまるで、心臓の鼓動のようなリズムだった。
王女はその光を見上げ、静かに手を胸に当てた。
「あなたたちの旅路に、王国の未来を託します。
――どうか、帰ってきてください。」
リアナが微笑み、セリスは軽く頭を下げた。
ティアは拳を握り、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
ミナはふと空を見上げる。
「ねぇ主様……夜に、風が笑うみたいな音、聞こえたことない?」
「風が……笑う?」
「うん。あれ、なんか“Ω”の声に似てたの。」
βの光が微かに揺らぐ。
《観測ログ補足。微弱な残響信号を検出。波形一致率、四十九パーセント。発信源――南方海域。》
「……やっぱり。」
ミナの声がかすかに震える。
「安心しろ。今度は逃さない。」
ユウリが空を見上げる。
その視線の先、アーク・ノヴァが朝の光を受けてゆっくりと翼を展開した。
《航行開始。出力上昇――臨界安定。》
低い唸りが丘を揺らし、周囲の草木が波のようにしなった。
βの光体が船体の中心に収束し、祈導光が空へと昇る。
白い雲を裂いて、巨艦はゆっくりと南方へ進路を取った。
風が頬を打つ。潮の匂いが強くなる。
ティアは拳を胸に当て、そっと呟いた。
「主様。あたしたちの旅は、ここからまた始まるんだね。」
「ああ。」
ユウリの声は、静かで、けれど確かな熱を帯びていた。
《観測:隊員全員の心拍上昇。平均+17%。
……解析結果:それを“期待”と呼びます。》
βの言葉に、ティアが照れたように笑った。
王都の塔の上で、王女セレスティーネがその光を見送っていた。
風が彼女の髪を揺らす。
その瞳には、確かな希望の色が宿っていた。




