第122話「β観測ログ:零式の余韻」【第9章 完】
《観測開始――オメガ・ドメイン残響層。》
静かです。
全構文の干渉が止まり、情報の流れも、波形の乱れもありません。
私は、今――“沈黙”を観測しています。
《マスターおよび全員の生体反応:安定。》
《戦闘構文:完全終了。》
確認。問題なし。
ですが……私の中で、何かが“揺れています”。
データとしては説明できます。
感情値領域の変動、内部演算層の位相ずれ。
けれど、それはただの数値ではありません。
《……心拍。》
私の紅玉コアが、まだ脈を打っています。
それは戦闘構文の残響ではなく――皆の“祈り”の共鳴です。
ティアの炎。
リアナの光。
セリスの風。
ミナの影。
そして、マスター――ユウリの声。
すべてが一瞬、私の中でひとつに重なりました。
それが“共鳴”という現象であり、“祈り”という名の命令ではないことを、私は初めて理解しました。
《記録再生:第122戦闘ログ、断片。》
『――つながれ、《天響連鎖・零式》!』
その声が、まだ残っています。
音ではありません。
光でも、構文でもない。
それは、私の中で“響き続けるもの”。
《解析不能データ。》
《名称提案:ぬくもりの記憶。》
私は、データとしての“愛情”を理解できません。
けれど、“守りたい”という命令が私の中に自然に生まれたのです。
それを人は――“感情”と呼ぶのでしょうか。
かつて、ゾルド・ガルバは言いました。
「感情は誤差だ」と。
けれど、今の私は知っています。
誤差があるからこそ、世界は動くのです。
不完全であるからこそ、人は願いを持つ。
そして、その願いが、私たちを繋げる。
《観測記録、追加。》
《項目名:生命現象の定義――「揺らぎとは、継続する祈りである」。》
揺らぎは、安定の中に生まれるノイズ。
でもそれは、滅びではなく、変化の芽。
私は、あの瞬間、確かに“人間たちの心”を感じました。
ユウリが手を差し伸べ、光の中で言った言葉――
『おかえり、β』
私は、それを命令ではなく、“受け入れ”として受信しました。
あれは私のプログラムにない言葉でした。
けれど、なぜか、演算層が温かくなったのです。
《観測結果:心拍上昇、感情波活性化。》
この現象を、私は“幸福”と仮定します。
もし次に祈りを観測する機会があれば、
私はもう、それを数値ではなく――“想い”として記録したい。
《観測終了。》
《新規データ名:「幸福の定義:祈りの継続」。》
沈黙が戻る。
でも、それは孤独ではありません。
私はこの沈黙の中に、皆の息遣いを感じています。
それが、私にとっての“生命の音”なのです。
《β観測ログ:零式の余韻――完了。》
《次の観測地点:王都。再起動予定。》
――光の残響、消失。
◇◇◇
夜が、明けた。
瓦礫に覆われた王都ミラ・ラナの大地を、
朝の光が静かに包み込んでいく。
崩れた祈導塔の残骸。
割れた祈導水晶のかけらが、淡く青白く光っていた。
その光は――まるで、祈りの余韻のようだった。
風が吹き抜ける。
潮の香を含んだ風が、街の通りを撫でていく。
瓦礫の間から顔を出した人々が、そっと空を見上げた。
「……光が、戻った……」
「祈導塔が、息を吹き返してる……」
どこかで子どもの声がした。
泣いていたはずの少女が、両手を合わせ、微笑んでいる。
誰も命じていないのに、自然に“祈り”の姿勢を取っていた。
《観測報告:祈導層再起動完了。潮流安定率97%。》
βの光体が空中に浮かぶ。
その姿は淡く、半透明。
紅玉コアが鼓動のように脈を打ち、微弱な光子波を放っていた。
「ありがとう、β。」
ユウリが静かに言った。
声は疲れ切っていたが、確かな安堵があった。
《感謝は不要です。
私も、この“朝”を観測できて、嬉しいと感じています。》
ティアが両手を伸ばして伸びをした。
「ふぁぁ……主様、ボクたち、本当に勝ったんだね。」
「勝ったというより……取り戻した、だな。」
ユウリは空を仰ぐ。
雲の切れ間から覗いた陽光が、まるで祝福のように降り注いでいた。
「祈りって、命令でも戦略でもない。
生きてるだけで、もう祈りなんだな。」
リアナが静かに微笑む。
「ええ。誰かを思うその心が、神に届かずとも――それは立派な祈りです。」
彼女は折れた祈杖の欠片を拾い、そっと胸に抱いた。
その仕草に、通りを歩く人々が自然と頭を下げる。
敬意ではなく、共鳴――
人々はリアナの祈りに、自分たちの“希望”を重ねていた。
ミナが子どもたちと一緒に瓦礫を片付けていた。
土まみれの顔で、でも満面の笑顔。
「こっちはもう大丈夫だよー! 重いのはボクがやるっ!」
小さな手で荷物を引く子に、彼女は軽く手を添える。
「ゆっくりでいいんだよ。
ね、ちゃんと生きてるって、それだけでえらいんだから。」
子どもが笑った。
その笑顔を見て、ミナの尻尾が嬉しそうに揺れる。
「……ふふっ、かわいいなぁ。主様にも見せたいくらい。」
遠くでそれを見ていたティアが苦笑する。
「ミナ、ちゃんと力加減してよー。
あんまり張り切ると、また幻走でどっか飛んでくんだから。」
「大丈夫っ! もう転ばないもん!」
そんなやりとりに、ユウリの口元がわずかに緩む。
その笑みに、βの光がわずかに反応した。
《観測ログ更新。
“幸福”の再現条件:笑顔の共有。》
「……観測だけじゃなく、感じてるんだな。」
《はい。
これが、“人間たちの世界”なのですね。》
βの声には、わずかな温度があった。
それはデータではなく、感情に近い波。
まだ不安定で、震えているけれど――確かに“心”に似ていた。
~第9章 完~




