第119話「深層の門 ― オメガ・ドメイン」
王都の地下。
祈導庁のさらに奥へ――祈りの残響が届かぬ、沈黙の底。
空気はひどく重かった。
耳を澄ませば、どこからともなく人の祈りが微かに反響している。
けれどそれは、願いでも希望でもなく……むしろ、嘆きに近い音だった。
《……空間座標、通常層から逸脱。
ここは潮流制御層の下層、“未登録階層”です。》
βの光体が、淡く脈動する。
祈導塔の内部構文を解析してきたβでさえ、この階層の情報は知らなかった。
「未登録って……王都の記録にも載ってないってこと?」
ミナが不安そうに辺りを見回す。
彼女の声は少し震えていたが、その目だけは鋭い。
《はい。記録消去の痕跡を確認。
意図的に――“忘れさせられた層”の可能性があります。》
「忘れさせた……?」
リアナが小さく呟く。
その瞳には、長く神に仕えてきた者としての痛みが滲んでいた。
「祈りの場所を、人が“隠した”というの?」
「……あるいは、神じゃなく人の都合でな。」
ユウリが低く言った。
灯の届かない闇の中で、彼の横顔だけが静かに光に浮かぶ。
「神を名乗る誰かが、祈りの流れを操作した。その仕組みの中枢が――ここだ。」
足元の石床がかすかに振動した。
波紋のような光が床下を走り、壁の祈導文字を淡く照らす。
「……見て。古代シェルダ文明の祈導言語。」
セリスが指先で壁をなぞると、文字が微かに浮き上がった。
触れた部分から、風のような冷気が溢れ出す。
「この層そのものが、“祈りの構文”でできているのかもしれません。」
リアナは祈杖を握りしめた。
「……けれど、これは優しい祈りではない。
誰かを救うためじゃなく、“管理するための祈り”です。」
その言葉に、ティアが拳を握った。
紅い闘気が手の甲に滲む。
「……主様、あたし、ここイヤだ。
竜の気配がしない。生きてるものの匂いが全然しない。」
ユウリは頷き、視線をβに向けた。
「β、観測範囲を広げてくれ。
この空間の中心――何がある?」
《解析開始……構文反応、膨大。
祈りの流れはすべて一方向。
中央中枢――“オメガ・ドメイン”へ収束しています。》
「……オメガ・ドメイン。」
セリスが目を細める。
「ゾルドの名前が示す最終構文。
彼が“完全秩序”を求めていた理由が、ここにあるのかもしれません。」
《付記。
この層の祈導波形は、βシリーズ設計思想の初期プロトコルと酷似しています。》
「βの……?」
《はい。
つまりこの層は、神託端末βシリーズの“母体構文”を元に造られています。》
「……βを、利用して造られた場所……か。」
ユウリの眉がわずかに動く。
その瞬間、空気が一変した。
壁の祈導文字が光を反転させ、まるで“目”のように彼らを見つめる。
《……観測干渉を検出。
祈導構文が、こちらの信号に反応しています。》
「β、一時観測停止!」
《了解、観測出力を――》
βの光が一瞬で乱れた。
《……っ! 干渉強度、急上昇!
逆探知波、ゾルド系演算層からの侵入!》
紫の光体が金色に歪み、ノイズが走る。
βの声が途切れ途切れに震えた。
《感情波……抑制……構文書き換えを――》
「やめろ!」
ユウリが即座に腕を伸ばした。
その手に紅の光が宿る。
「《改造構文・静音領域展開》!」
空間が音を失い、βを包む光が一瞬だけ安定する。
だが干渉波は止まらない。
βの光翼が一枚、軋むように消滅した。
「βっ!」
ティアが走り出した。
その手には何の武器もない。
徒手のまま、炎の闘気を両腕に纏う。
「誰かがβちゃんをいじめてる! そんなの、許さないっ!」
拳を振り下ろすと、紅蓮の火花が通路を走った。
爆風のような熱が迷宮を照らし、祈導構文の線が一時的に焼き切れる。
《感情干渉の一部解除……ティア、ありがとう。》
「しゃべれたっ!? βちゃん!」
ミナがぱっと顔を上げる。
その表情には安堵が滲んでいた。
「よかった……消えちゃうかと思った!」
《……すみません。観測層が“奪われかけました”。
このままだと、私がゾルドに吸収される。》
「そんなの、絶対イヤだよ!」
ミナが叫ぶ。
目に涙を浮かべながら、ユウリの背中を見上げる。
「主様……守ろ? βちゃん、頑張ってたもん。ボクたちで、助けよ!」
「ああ。絶対に取り返す。」
ユウリの声が静かに響く。
「β、お前は奪われる側じゃない。
祈りを“理解する側”だ。だから――俺たちがその証を見せてやる。」
《……了解。観測層、再構築開始。》
βの光がわずかに脈動し、残った光翼が再び輝く。
セリスが風を纏わせ、周囲の粉塵を祓った。
「……空気の震えが変わりました。
ゾルドが気づいた。私たちを“敵”として、待ち構えている。」
「なら、行こう。」
ティアが構えを取り、ユウリの隣に並ぶ。
「βちゃんも、あたしたちも、もう誰の道具でもない。
拳で、証明してやるっ!」
リアナが頷き、祈杖を掲げる。
ミナが幻影を放ち、前方に揺らめく影を送り出す。
《観測更新。中枢まで残り三百メートル。
感情値安定。……マスター、進行可能です。》
ユウリは深く息を吸い、闇を見据えた。
「行こう。
ここを越えれば――ゾルドの心臓部だ。」
六人の影が、光と闇の狭間を歩み出す。
冷たい祈導光が足元を照らすたび、空気の奥で何かが息づいていた。
それは、彼らを見下ろす“神の残響”――
あるいは、複製の王のまなざしだった。




