第118話「祈導庁の影 ― マリナの決断」
王都の朝は、奇妙な静けさに包まれていた。
昨日まで祈導光があふれていた街路は、今や灰色の霧に沈んでいる。
海から吹く潮風が冷たく、夜の名残を運びながら、祈りを失った街のざわめきをどこか遠くに押しやっていた。
祈導塔の崩壊は、王都の象徴をもぎ取った。
その光を支えにしていた人々は、方向を見失ったまま朝を迎えている。
教会の鐘の音は止まり、代わりに、どこからか子どもの泣き声が聞こえた。
市場は開かず、商人たちは扉を閉ざし、誰もが“何か”を失った表情をしていた。
――祈りを、信じる理由を。
そんな空気を切り裂くように、ギルド《潮の声》の扉が開いた。
ユウリたちは会議室へと入る。
中央の長机の上には、朝露に濡れた地図と数枚の報告書が置かれていた。
マリナが立っていた。
琥珀の瞳の奥に、疲労と焦燥、そして職務を越えた覚悟が宿っていた。
「……祈導庁から、正式な報告が届かないの。」
その一言に、ティアが目を見開く。
「届かないって……塔の中枢が沈黙してるってこと?」
「ええ。沈黙してるのは上層部だけじゃない。
潮流制御を担当していた“潮流院”の連絡も途絶えた。
技術官の一部は消息不明。
それに――生き残った司祭のほとんどが、祈導庁ではなく議会に保護されてるの。」
リアナが顔を曇らせる。
「議会……? 祈りの管理者が政治の庇護下に?」
「そう。
祈りが“権力”に変わろうとしているのよ。」
マリナは資料を机に叩きつけた。
その手は震えていた。
「……そして今朝、議会から通達が出た。
“再定義者”が祈導構文を破壊し、
神の秩序を冒した――反逆者の可能性がある、と。」
空気が凍りついた。
ユウリはゆっくりと息を吐く。
「……なるほどな。
“秩序”を失った人間が最初に探すのは、“悪”の象徴か。」
《観測補足:王都通信網に“祈導構文破壊事件”の報が流布中。
対象:“再定義者”。 出所:祈導庁内部。》
βが淡く発光しながら告げた。
ティアが思わず拳を握る。
「ボクらが反逆者? ふざけてる!」
「怒るな、ティア。」
ユウリが静かに言う。
「こうなることは分かってた。
神の代わりに祈りを動かしたんだ。恐れられて当然だ。」
ミナが俯いた。
「でも、あの時の人たちは……“助かった”のに。」
リアナが小さく頷いた。
「恐怖は時に、感謝よりも早く広がるものです。」
《観測:民衆感情の波形、恐怖六十五パーセント、希望三十パーセント。
しかし、ギルド区域周辺では“信頼”波が上昇傾向。》
βの声は冷静だが、そこにどこか人間的な温度があった。
「つまり、街の外では疑いが広まり、
ここ、ギルド周辺では私たちを信じる人が増えてるってことね。」
セリスが静かに呟いた。
マリナは小さく頷き、机に地図を広げた。
王都全域が描かれたその地図には、赤い線が幾つも走っている。
祈導塔の中心から放射状に伸びる光脈――本来なら停止しているはずの“潮流”が、今も脈動していた。
「これを見て。」
マリナは線を指でなぞった。
「祈導塔の崩壊で潮流制御層は完全に止まったはず。
でも今朝、王都の地下で新しい光の流れが確認された。
それも、塔の残骸ではなく――もっと深い階層。」
「……下層構文。」
ユウリの声が低く響いた。
「ゾルドが仕込んだ、人格複製構文の痕跡だな。」
《一致。潮流下層構文に“人格複製”の残留波形を検出。
一致率七十八パーセント。 未知の補助コードも併存。》
「未知のコード?」
リアナが首を傾げる。
《はい。 ゾルドのものとは異なる“神性演算”構文を検知。
……祈導庁が独自に再利用した可能性があります。》
「……神の技術を、人が勝手にいじってるってことか。」
ユウリの声に怒りが滲んだ。
マリナは拳を握りしめる。
「だから、放っておけないの。
祈導庁がゾルドの構文を利用して、人々の“祈り”を再構築しようとしてる。
それがもし完成すれば――今度こそ、王都は完全に支配されるわ。」
ティアが立ち上がる。
「主様、ボクらで止めよう。
神を信じられなくなった人たちが、今度は“偽物の神”に縋ろうとしてる!」
ミナも頷く。
「βちゃんの観測を使えば、侵入経路も分かるはずだよ。」
《可能です。祈導庁地下構造の七割は既に解析済み。
ただし、残る三割は神性層への干渉領域――危険度高。》
「危険でもやる。」
ユウリの声が短く響いた。
「“人の祈り”を人の手に戻すためにな。」
その言葉に、マリナは目を伏せ、そして静かに微笑む。
「……私も行く。」
「マリナさん、でも――」
「分かってる。ギルドの立場を捨てることになる。
でも、私は《潮の声》の代表としてじゃなく、一人の人間として、
“信じる自由”を守りたいの。」
その目は真っすぐだった。
かつて受付嬢として穏やかに依頼をさばいていた彼女とは違う。
彼女は今、ひとりの“戦う大人”として立っていた。
《作戦ログ開始。目的:祈導庁中枢層への潜入、および不正構文の観測・削除。
副目的:ゾルド人格端末残骸の回収。》
βの光が明滅する。
セリスが風を纏い、静かに呟いた。
「人の祈りを弄ぶ者は、神よりも深い闇を生む……」
リアナが両手を組む。
「けれど、光もまた人の中にあります。
それを取り戻すのが、私たちの役目です。」
ユウリは立ち上がり、窓の外の祈導塔跡を見つめた。
崩れた石壁の向こう、空が少しずつ青みを取り戻していく。
「……神がいないなら、人が祈りを正す。
それが俺たちの仕事だ。」
《記録:ログネーム“祈導庁影層、観測開始”。》
βの光がふわりと広がる。
朝の光と重なって会議室を包み込んだ。
光の中で、ユウリたちの影がゆっくりと重なる。
その輪郭はまだ揺らいでいる――だが確かに、“未来へ歩む人の形”をしていた。




