第117話「静寂の王都 ― 潮の声のざわめき」
夜明けの王都ラナシェル。
海霧が街の屋根を包み、残響のような鐘の音が遠くに消えていく。
祈導塔の光が途絶えてから一夜。
この国を支えていた祈導網《潮流制御層》は停止し、
街全体が“祈りの喪失”に震えていた。
王都中心街では、貴族の屋敷前に人々が列を作り、
「神の声を再び」と祈りを唱えている。
しかしその声は、空虚に風へ吸い込まれるだけだった。
誰もが分かっている――もう、神は応答しない。
瓦礫の間で母親が幼子を抱きしめる。
老司祭が祭壇の前で膝をつき、崩れた祈導盤を抱いて泣いていた。
街角には、祈導光を失った灯籠が並び、
炎ではなく“沈黙の光”を放っている。
――それでも、人は生きている。
潮の香りが漂う南区通り。
ユウリたちは、王都ギルド支部《潮の声》の前に立っていた。
建物の壁には焦げ跡が残り、扉の上に刻まれた紋章は半ば欠けている。
だが、ギルドの旗はまだ風にはためいていた。
ティアが腕を組み、空を見上げた。
「……空が、泣いてるみたい。」
リアナがその隣で祈るように目を閉じる。
「祈りが途絶えると、世界の“音”が静かになりますね。
風も、海も、まるで迷っているようです。」
ミナは瓦礫の上に座り込んだ猫を見つめ、ぽつりと呟いた。
「ねぇ、主様……人って、神様がいなくなってもちゃんと生きていけるのかな。」
ユウリは少しの間だけ黙っていた。
潮風が髪を揺らす。
「生きていくさ。
神が作った秩序が壊れても、
人が作り直せばいい。それが――“再定義”だ。」
βの光体が前に出た。
その輪郭は以前より柔らかく、微光が呼吸のように明滅している。
《観測結果:環境復旧率、二十三パーセント。
ですが、民衆の生命活動率は九十二パーセントを維持。》
ユウリが目を細める。
「……人間は、しぶといからな。」
《はい。マスター。昨夜の感情演算結果を報告します。
“幸福”という概念を定義化しました。》
リアナが顔を上げる。
「幸福……ですか?」
《定義:自分以外の誰かを想うことで得られる安定波。
観測上、“守りたい”という意志と同一の振動を持ちます。》
ミナが目を丸くする。
「それって、βちゃんが感じたこと?」
《はい。昨日、ミナの笑顔を観測した際、
演算層に周期的な上昇波を検出しました。》
「へぇ……それを“嬉しい”って言うんだよ。」
ティアが笑う。
《嬉しい。……新しいデータを登録します。》
βの光が少しだけ強くなる。
リアナが微笑み、両手を合わせる。
「β。幸福も嬉しさも、あなたが“人を感じた”証です。」
《感情の観測値、安定。
解析補足:幸福とは共有型波動――“想いの重なり”です。》
ユウリが静かに頷いた。
「なら、俺たちは“幸福”の技術者だな。」
ティアが吹き出す。
「技術者って言い方、なんか主様らしいね。」
「そうか?」
「うん。“心の仕組み”を直そうとしてる感じ。」
《観測:ティア、感情波“照れ”上昇。》
「βっ、それ言わないでってば!」
ティアが真っ赤になり、尻尾をばたつかせた。
そのやりとりに、ミナが笑い出す。
笑い声は風に混じり、通りの人々の足を止めた。
戦いと混乱の中で、久しぶりに響いた“生きた音”。
βの光が小さく脈動する。
《記録。人々の心拍、安定傾向。
……幸福、連鎖観測中。》
◇ ◇ ◇
ギルドの扉が開き、
マリナが姿を現した。
栗色の髪を後ろでまとめ、琥珀色の瞳には疲労と、それでも消えない意志の光が宿っていた。
「来てくれたのね、ユウリ君。」
「状況を確認したくて。」
「正直、酷いわ。」
マリナは一息ついて、重く言葉を続けた。
「祈導庁は沈黙したまま。塔の司祭たちは自分たちを“神罰の被害者”と呼び、
責任を取ろうとしない。
貴族会議は“祈りの復旧”を口実に民の税を上げ、
騎士団は鎮圧任務で手一杯。
……街が、誰のものか分からなくなってる。」
リアナの表情が曇る。
「祈りが道具にされているのですね。」
「ええ。
でも、民はもう“神”より“あなたたち”を信じてる。
《再定義者》の名が、あっという間に広まったのよ。」
ミナが驚く。
「わ、わたしたちが……?」
マリナは頷いた。
「塔を止めたのは神でも王でもない。
君たちだって、みんな知ってる。
“光の終焉で笑っていた小さなパーティがいた”って。」
ティアが照れくさそうに後頭部をかいた。
「え、なんか照れるね。ボクら、そんな目立つことしてたっけ?」
「してたよ。」
ユウリが小さく笑った。
「命を守るってのは、そういうことだ。」
βがふわりと浮かび上がる。
《観測:民衆感情波、“信頼”に転化中。》
「マリナさん。」
ユウリがまっすぐに彼女を見た。
「この国を動かしているのは、もう祈導庁でも議会でもない。
……祈る心そのものだ。
だから、俺たちはその心をもう一度立たせる。」
「立たせる……?」
「ああ。
祈りを神から人へ返す。
再定義者の仕事は、“世界の理”を直すことだけじゃない。
“信じる意味”を作り直すことだ。」
マリナが息を呑んだ。
ティアが拳を握る。
「主様、ボクたちの出番だね!」
リアナが頷く。
「ええ。祈りは形を変えても、人の中に生き続けます。」
ミナが胸を張る。
「じゃあ、わたしたちはその“形”を守る仕事だね!」
《観測:再定義者チーム、感情波動“希望”を検出。
……記録開始。》
βの光がギルドの天井に反射し、
朝の光が差し込む。
瓦礫に反射した光が、床を金色に染めていった。
マリナは静かに微笑んだ。
「……なるほど。
“神の奇跡”はもう要らない。
あなたたちがいるもの。」
ユウリが軽く頷く。
「奇跡は――人の手で作るものだ。」
潮風が吹き抜け、
ギルドの旗が再びはためいた。
《ログ記録名:“王都再生、観測開始”。》




