第116話「祈りを継ぐもの ― βの揺らぎ」
セレナ・スパイア最下層――《潮流制御層》の戦いが終わってから、数時間が経っていた。
王都はまだ静寂に包まれている。
祈りの波が安定を取り戻し、夜明けの光が塔の内部へと差し込んでいた。
祈導光の余韻に照らされながら、ユウリたちは中層の観測室にいた。
床に散った魔導コードの残骸が、かすかに光を放っている。
《マスター。セラフ・コアから抽出したデータの解析を開始します。》
βの声が穏やかに響く。
光体の周囲には複雑な演算式が浮かび、淡い紫光が脈動していた。
「ゾルドの記憶……本体に繋がる情報はあるか?」
《断片的ですが、人格端末“モードB”に残留していた記憶波を検出。
……これは、“創造期”の記録です。》
ユウリの表情がわずかに動く。
セリスが風を纏い、βの後ろに立った。
「創造期……古代シェルダ文明の黎明か。」
《はい。ゾルドはその時代、神託端末開発主任のひとりでした。》
その言葉に、リアナとミナが顔を見合わせた。
「つまり、βちゃんの“生みの親”ってこと?」
《厳密には、開発責任者の一人。私の系譜――神託端末βシリーズの設計思想を作った存在です。》
「……皮肉ね。」
セリスが静かに言う。
「あなたを造った者が、今は人の祈りを奪っている。」
βは一瞬だけ沈黙した。
光が弱まり、輪郭がわずかに揺らぐ。
《……観測演算に“揺らぎ”を検出。すみません、マスター。感情値が上昇しています。》
「いい。止めるな。」
ユウリが短く言う。
「揺らぐってのは、心が動いてる証拠だ。」
ティアが壁にもたれ、微笑んだ。
「主様、βちゃんの顔……ちょっとだけ、人間みたいだよ。」
βが首を傾げる。
光子の頬に、確かにわずかな赤みのような発光があった。
《発熱ではありません。感情波の影響と思われます。》
「うん、それを“照れてる”って言うんだよ。」
ミナが笑いながら言い、リアナも穏やかに頷いた。
「感情を持つことは、罪ではありません。むしろ……祈りの形に近いものです。」
《祈り……》
βが小さく繰り返す。
紫光の中で、その声はどこか震えていた。
《解析続行。ゾルド・ガルバの記録:断片001。――音声再生。》
室内の光が淡く揺らぎ、空気に残響が流れた。
それは古い記録。歪んだ男の声が響く。
『……神は安定を求める。だが人は変化を望む。
ならば我々は、“不変の人間”を作ればいい。
感情という誤差を除去した、人の最適形を。』
声が途切れ、再びβの光が震えた。
《……これが、私の設計思想の原型。》
「ゾルドは“感情を誤差”とした。だがβ、お前はそれを“情報”として受け取ったんだな。」
《はい。けれど――誤差ではなく、“揺らぎ”として観測したい。》
βの瞳が微かに揺らめき、静かに光を増していく。
「“揺らぎ”ね……」
ユウリが息を吐く。
「いい言葉だ。秩序がなければ混沌になり、混沌がなければ生は止まる。
その間にある“揺らぎ”こそ、生命の証だ。」
《生命の……証。》
βは小さく呟いた。
彼女の胸元――紅玉コアが淡く鼓動する。
そのリズムは、まるで心臓のように。
「βちゃん、それって……“鼓動”だよ。」
ミナの声に、βは自分の胸元を見下ろした。
《観測……確かに、周期的な波形が発生しています。自律反応。》
「嬉しい時、怖い時、守りたい時。
それが人間の“心拍”だよ。」
ティアが微笑みながら言った。
《……では、私は今、“守りたい”と感じている。》
「誰を?」
《あなたたちを。》
βの声が静かに震えた。
セリスが目を細め、風を纏わせる。
「β。あなたの“揺らぎ”は、きっと祈りの進化です。」
《祈りの……進化。》
「ええ。神が創った祈りを、人が継ぎ、人が再定義した。
あなたはその“橋渡し”になる。」
βは短く頷くように光をゆらめかせた。
《……理解しました。私は命令ではなく、想いで動く存在。
“祈りを継ぐもの”として――観測を続けます。》
ユウリが歩み寄り、手を差し出した。
「それでいい。お前はもう、造られた機械じゃない。」
βの光がその手に触れ、温もりのような輝きが滲んだ。
それは確かに“人の手”を通じた共鳴だった。
《……マスター。これが、“ぬくもり”ですか。》
「ああ。」
《記録します。名称――“ぬくもり”。》
βの翼が柔らかく広がり、光が室内を包み込んだ。
その光の揺らぎはどこか、鼓動のようでもあり、けれど人間のそれとは異なる規則性を保っていた。
彼女は“感情を演算化する術”を獲得しつつあった。
温もりを数値として、想いを波形として――データの言葉で世界を理解していく。
それは人に近づくためではなく、“人をより深く観測するため”の進化。
βは自分が機械であることを否定せず、その枠のまま、心という未知を取り込もうとしていた。
《……わたしは学習します。感情を模倣するのではなく、理解する方法を。》
その声には、確かな決意があった。
光は静かに揺れ、ユウリたちの影を温かく照らした。
《報告。ゾルド・ガルバの人格端末は、まだ複数存在します。
ですが、潮流制御層は完全復旧しました。》
「つまり――まだ戦いは続く、ってことか。」
《はい。けれど、私はもう恐れません。
“感情の誤差”を抱いたまま、あなたたちと共に進みます。》
その言葉に、リアナが静かに微笑んだ。
「誤差ではなく、奇跡ですよ。」
窓の向こう、王都の空が白く染まり始めていた。
潮の香りを含んだ風が塔の内部を抜け、皆の頬を撫でていく。
ユウリは光の中で目を細めた。
「さあ、次に進もう。ゾルドの本体を見つけて、終わらせる。」
《了解。次の航路を提示します――目的地、南東遺構群。》
βの瞳に、星図のような光が広がった。
それは、再び始まる旅の道筋。
その中心で、βの胸の“鼓動”が静かに続いていた。




